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許すな!憲法改悪・市民連絡会

東日本大震災

2013年1月 1日 (火)

ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去 憲法草案作成携わる

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130101-00000003-asahi-soci

ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去 憲法草案作成携わる

朝日新聞デジタル 1月1日(火)2時5分配信
ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去 憲法草案作成携わる
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取材に答えるベアテ・シロタ・ゴードンさん=2005年4月、東京・新宿

 【ニューヨーク=中井大助】第2次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ)の一員として日本国憲法の草案作成に携わり、男女平等などの条文を盛り込んだベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓(すいぞう)がんのためニューヨークの自宅で死去した。89歳だった。追悼式などは後日行う。

 長女のニコルさんによると、最期の言葉は日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい、という趣旨だった。献花などを希望の場合は代わりに、憲法9条を守るため、作家の大江健三郎さんらが結成した「九条の会」に寄付してほしいという。

 1923年、オーストリア生まれ。著名ピアニストだった父のレオ・シロタさんが東京音楽学校の教授に就任したことをきっかけに29年に来日し、幼少期を日本で過ごした。

朝日新聞社

最終更新:1月1日(火)8時55分

2011年10月16日 (日)

故郷、福島・飯舘を訪ねて 収穫の秋、田に雑草

http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20111016099.html
故郷、福島・飯舘を訪ねて 収穫の秋、田に雑草
2011年10月16日(日)08:00

(産経新聞)

 ■農業続けたい…「村は死んでない」

 東京電力福島第1原発の事故で福島県飯舘村が全村避難となってから3カ月以上が過ぎた。飯舘村に住む両親が南相馬市に避難するため、手伝いに行った7月以来、村を訪れた。すっかり肌寒くなっていた。実りの秋。稲刈りや芋掘りなど村中が慌ただしくなる時期のはずだが、今はひっそりと静まりかえっている。

 東北新幹線の駅がある福島駅から南相馬市までは車で約2時間。関東と東北を結んでいた常磐線は震災と原発事故の影響で、現在も広野町内から宮城県亘理(わたり)町内の約100キロにわたる区間でいまだに運休している。南相馬市にある原ノ町駅も運休区間に入っているため、東京からのアクセスは不便なままだ。

 ◆両親すれ違い生活

 真新しい電化製品とテーブルだけだった避難先のアパートには、生活用品が多くなり、生活感が増していた。その分、2人とはいえ、とても手狭に感じた。両親はもう少し広いところに移ろうとアパートを探しているが、周辺の賃貸物件はいまだにいっぱいだという。母は「もうすぐお正月なのに、みんなが帰ってくる家もないのはね…」と寂しそうに話した。

 飯舘村の自宅にも行ってみた。玄関の扉を中から固定して開かないようにしているため、裏口から出入りするしかない。カーテンを全て閉め切っているので、ひんやりと空気が冷たい。たった3カ月でも生活感はなくなり、寒々としていた。村内をパトロールする「見回り隊」をしている父は、仕事のある日は自宅に戻る。いくら暗くて寒くても、自宅の方が落ち着くのだという。母は村内の会社に毎日通っているが、仕事が終わるとアパートに帰る。避難後、すれ違いの生活が続き、2人だけの生活すらままならない状況だ。

 両親が自宅近くの畑の草刈りをするというので手伝った。秋は稲刈りのコンバインが行き交い、農協などにはとれたての新米が集まる。田んぼに黄金色のわらが干されているのがこの季節の光景で、実家から送られてくる新米を食べるのが楽しみだった。体育祭や敬老会、文化祭などイベントも盛りだくさんの季節だからこそ、誰もいない田んぼに生えている茶色の雑草を見ると寂しくなった。

 ◆「元に戻れるのか」

 「あれは去年植えたブルーベリーだよ」「リンゴもなったんだけど取らなかったねえ」。草を刈りながら母が指さした木は枯れていた。葉が落ちた裸の桃の木には収穫されずにひからびてしまった焦げ茶色の実のようなものがついていた。大きい栗が地面に落ちていたが、拾うことはできなかった。

 広大な畑を見回して、母は「元に戻れるのかね」とつぶやいた。村は2年後の帰還を目標に除染計画を進めているが、これだけ広大な土地の入れ替え作業は「途方もない」と感じた。畑や田んぼの土を入れ替えても、雨が降れば、山から水が流れてくる。県外に避難した知人の中には、もう村には戻らない考えの人もいる。農業を続けたい父を思って、母は、どこかに土地を借りて農業をしようかと父に勧めたという。しかし、父は今でも飯舘村の土地で農業をしたいと、母の提案を受け入れなかった。

 薄暗くなった帰り道、7月と比べ、電気のついている家が少なくなったことに気づいた。その代わり、県道には車列ができていた。村唯一のコンビニは看板が外されていたが、その隣にあるガソリンスタンドは営業していた。母の会社も毎日、たくさんの人が村外から出社している。

 「村に来ている人がいっぱいいる。村は死んでないんだよ」。母の言葉に胸が熱くなった。

<福島第1原発>浪江→東京…望郷の念、断ち難く

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111016-00000012-mai-soci

<福島第1原発>浪江→東京…望郷の念、断ち難く

毎日新聞 10月16日(日)11時9分配信
 東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町の阿久津敬一さん(73)、サト子さん(70)夫妻が東京に避難し7カ月になる。一時帰宅のたびに測る自宅の放射線量は上がり、近くで避難生活を送る2人の孫は都内の学校になじみ、次第に東京を離れにくくなっている。東京の人波のなかで、先の見えない生活が続く。【竹内良和】

 ◇頼みの長男、体調崩し急逝

 警戒区域となった浪江町で材木店を営んでいた。店舗兼自宅は第1原発から約9キロ。震災直後に、長男と次男一家と一緒に東京の親戚宅に避難した。

 4月下旬、夫妻と長男は、江東区の国家公務員宿舎に身を寄せた。20階の部屋のベランダに出ると、あまりの高さに目がくらんだ。

 敬一さんは、高卒後の1年間、同区の材木会社に勤めていた。リヤカー付きの自転車で材木を配達。坂道でペダルが重くなると、後ろから見知らぬ人が押してくれた。東京の町が人情にあふれていた時代だった。

 当時、海だった場所にはマンションが建ち並び、貯木場もなくなった。今は猛スピードで自転車に追い抜かれ、びくびくして道を歩く。「自転車を押してくれる人なんていないんだろうな」。無性に寂しくなった。

 福島の新鮮な食材が楽しみだった。東京のスーパーで買う野菜は風味がないと感じる。鮮度の落ちた生魚が嫌で、魚は干物としめさばしか食べなくなった。「いい色のがあった」。サト子さんがやっと見つけた新鮮なシジミは日本橋のデパ地下に並んでいた。小パック一つで600円。手が出なかった。

 5月下旬。夫妻が慣れない東京暮らしを送るなか、隣室の長男(45)が急逝した。体調を崩して2年前に帰郷するまで、最高裁の書記官をしていた経験から、東電との交渉もこなしてくれていた。避難後、持病の薬を飲んでいなかったという。

 激務の日々でも、東京からサト子さんの好きなクラシックのチケットを何度も送ってくれた。「お母さんの夢は年を取ったら東京にクラシックを聴きに行くことなの」。幼いときに聞いた母の言葉をずっと覚えていてくれた孝行息子だった。「避難のストレスもあっただろうね」。サト子さんは涙をこぼした。

 9月、近くに次男夫妻と2人の孫が避難している練馬区内の都営住宅に転居。長男の遺骨を携えていた。「かわいがってくれたおじいちゃん、おばあちゃんの墓に納めたい。でも浪江だと墓参りできない。どうしようもないんだよね」

 次男は7月から親戚の居る相馬市を拠点に材木店を再開。夫妻は蓄えの多くを再開資金に充てた。膨大な書類を前に、東電への賠償請求は進まない。都営住宅の退去は来夏に迫っているという。

 避難直後は「帰宅の日」を待ちわび、テレビにかじりついていた。一時帰宅するたびに計測する家周辺の放射線量は上がり続けている。部屋は雨漏りでカビだらけ。「もう帰れない」。テレビはほとんどつけなくなった。

 次男の子2人は都内の高校と小学校に入った。学校になじんだ孫の笑顔をみるたびに「しばらく東京は離れられないな」と思う。でも、古里への思いは簡単に断ち切れない。

 サト子さんが青果店に寄ったときのこと。店主から「うちは福島の野菜なんか仕入れてないよ。怖くて食えないからね」と声をかけられた。腹が立った。家族に話すと、次男は「『福島の野菜を買いに来た』って言ってやればよかったのに」。

 「郷土愛って不思議なもんですね」。サト子さんは苦笑いを浮かべていた。

2011年10月10日 (月)

風知草:こっちへ来てみろよ=山田孝男

http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20111010ddm002070127000c.html
風知草:こっちへ来てみろよ=山田孝男

 秋深し。鉄道の節電ダイヤも電力浪費の反省も消えて浮かれ始めた首都圏と違い、福島は依然、戦場である。

 福島市の渡利(わたり)地区は「特定避難勧奨地点」に指定されないというベタ記事が、社会面の片隅に載った(毎日新聞7日付朝刊=東京最終版)。

 翌8日、渡利小学校で開かれた住民説明会では「なぜ渡利を外す」「子どもには危険な地域だ」などの声が相次ぎ、国の担当者が「まだ決めたわけではない」と釈明に追われた(同9日朝刊=福島版)。

 そんな騒ぎの週末、渡利の住人、丹治(たんじ)博志(63)智恵子(64)夫妻を訪ね、放射能との闘い、除染の苦労を聞いた。

 この地でカフェを営む夫妻は週に1度、長袖の作業着と住友スリーエム社製の防塵(ぼうじん)マスクをつけ、米国製のガイガーカウンターと中国製の線量計で高線量のポイントを探す。

 雨どいの下で針が振れることが多く、堆積(たいせき)した土やホコリを剥ぎ取る。屋根に上ってほうきで掃き、雨どいに流れ込んだゴミや枯れ葉を取り除く。震災前は生やすにまかせた庭の緑を努めて刈り込む……。

 「行政に期待したいけど、指示待ちではダメだと考えるようになった。人の話を聞いて、研究して、自分で決断する。きれいになるまで100年かかるとぼくは思う。除染するというより、除染の可能性を探っているという現状ですが、1%でも効果はある、と信じてやっているわけです」(博志)

 私は福島に勤務したことがあり、夫妻と行き来があった。とはいえ17年も前のことで、震災後の夫妻の消息は新刊「クロニクルFUKUSHIMA」(青土社)で知った。

 この本は、原発震災をめぐる講演と丹治ファミリーを含む7編のインタビューないし座談の記録から成る。講師兼インタビュアーはギタリストで作曲家の大友良英(52)。

 国内外の映画やテレビドラマのテーマ曲も手がけて人気の大友は、少年時代を渡利で過ごした。そこに根差す思い入れが全編を貫いている。

 丹治家は離散していた。3月14日、原発爆発で放射性物質が拡散する寸前、長男の嫁と孫を名古屋へ送り出した迫真の回想は同書に譲ろう。

 震災直後、初動調査を禁じた厚生労働省所管の研究所に辞表をたたきつけ、即刻、現地入りした木村真三・現独協医大准教授(44)=放射線衛生学。「放射能が降っています。静かな夜です」というツイッターの書き込みで大反響を巻き起こした福島市在住の詩人、和合(わごう)亮一(43)=中原中也賞……。

 連続インタビューの矛先は東京へ向いている。核心のメッセージは「こっちへ来て現実を見てみろよ」(大友)だ。

 渡利が注目を浴びたのは、保育園の庭で、国の校庭利用基準値の24倍の放射線量を計測(5月)してからだ。先週は「土壌1キロに30万ベクレルのセシウム」と報じられた。これも国の規制値を大幅に超える。

 丹治家のカフェ「風と木(ふうとぼく)」の店先の柿が色づいている。例年にない豊作だが、セシウムが1キロあたり176ベクレル。卓上の花びんを満たす淡紫色のノコンギクは山形県米沢市で採ってきた。子どもの避難、除染、食料放射能値を測定するベクレルカウンターの設置が急務だ。

 それはそれ、と言わんばかりに東京では経済成長と原発輸出が論じられている。間違っていると私は思う。(敬称略)(毎週月曜日掲載)

2011年10月 9日 (日)

東京【社説】週のはじめに考える 「住民の論理」で復興を

同感だ! だから私は復旧・復興の「復興」と言う言葉を使うのすら抵抗感がある。地元が臨んでいるのは「日常の回復」=「復旧」なのだ。火事場泥棒を許すな!(高田)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011100902000041.html
【社説】週のはじめに考える 「住民の論理」で復興を

2011年10月9日

 大震災の復興のスピードが遅すぎます。被災者が望むのは夢の未来都市の建設ではなく、いち早い日常の回復です。「住民の論理」での復興を望みます。

 「神戸の復興のマネをしてはいけませんよ。長田区の復興が成功したとは思いません」

 神戸市で写真館を営む松原洋さん(80)は、悔しそうに語りました。かつてJR新長田駅の商店街や町内会などの会長を務めていた人です。阪神大震災で一帯が焼失した長田区では、再開発事業などが行われ、今や超高層ビルが林立しています。
◆震災はチャンスなのか

 「お仕着せの再開発でした。震災前から計画があり、『震災さまさま』でできたようなものです。何の味もない高層ビルばかりで、入居した商店は、一階はともかく地下や二階はまるで客が集まりません。町に人情もなくなってしまいました」

 震災直後に神戸市は、新長田駅周辺などのまちづくり案や都市計画道路の着手など、矢継ぎ早に緊急復興計画を打ち出しました。これに住民らは次のような抗議のアピールを行っています。

 《都市計画事業はいずれも住民の反対や批判などで、事業化が難航していたものです。住民が震災で打ちのめされ、無力感に襲われているこの時に、強権を発動して一挙に実現しようというのでしょうか》

 「震災を行政や政治権力が『千載一遇のチャンス』ととらえたのです」と指摘するのは、神戸育ちの経済評論家・内橋克人さんです。「不幸な震災を逆に利用して、これまで住民の反対で立ち往生してきた事業を一挙に強行してしまう行政ファシズムです。災害に強いまちづくりの名のもとに、大手ゼネコンが入り込み、利益獲得のチャンスとしたわけです。その結果、地元の中小の建設会社はつぶれてしまいました」
◆白紙状態に便乗して

 大災害や戦争など衝撃的な出来事を巧妙に利用する政策が、世界各地で強行されたことをカナダ在住のジャーナリスト、ナオミ・クライン氏は近著「ショック・ドクトリン」(岩波書店)で検証しています。人々が茫然(ぼうぜん)自失している間に急進的な社会的・経済的変革を進めるのが、「ショック・ドクトリン」です。

 ハリケーン・カトリーナが二〇〇五年に米国南部を襲ったとき、被災地の下院議員は「これで低所得者用公営住宅が、きれいさっぱり一掃できた。われわれの力ではとうてい無理だった。これぞ神の御業(みわざ)だ」と発言したそうです。

 〇四年のスマトラ沖地震では、スリランカの海岸線も津波の大被害を受けました。漁師たちは追い払われ、リゾートホテルを建てる再開発計画ができました。

 政府幹部はやはり「津波が観光産業に味方をしてくれた」と語ったといいます。

 漁民の支援団体は「第二の津波」だと批判しました。被災者の白紙状態の心理に付け込み、惨事に便乗した獰猛(どうもう)な資本主義の姿がそこに見えます。

 東日本大震災では、町の高台移転や漁業特区などが構想されています。復興構想会議の提言の目玉も「特区」の積極活用でした。内橋さんは続けます。

 「特区とは規制緩和の極致であり、『マネー』にとってのバリアフリー化です。漁業に『マネー』を導入することは、日常的に海を守ってきた人を排除して、漁民をサラリーマン化することではないでしょうか」

 魚を取り尽くさないよう資源管理型の漁業に取り組んできた漁業者が三陸地方には大勢います。宮城県知事の主張する漁業特区の考え方には、漁協が全面反対の声を上げました。果たして漁業権を民間企業に開放したら、どうなるでしょうか。

 加瀬和俊・東大社会科学研究所教授は「利潤を保証する優良漁場を企業の手に集中させ、復旧を困難にします。歯を食いしばって立ち直ろうとしている漁業者の利害とは絶対的に相反します」と警告しました。

 高台移転など災害に強いまちづくりは、むろん大事なことです。でも、創造的復興の言葉を御旗にして、千載一遇のチャンスとばかり、「行政の論理」や「大資本の論理」がうごめいているのなら、注意喚起が必要です。
◆「日常の回復」こそ

 内橋さんは被災地を何度も回りました。被災者は「日常を取り戻すことが最大の望みだ」と口々に漏らしたそうです。

 もっと豊かになどと口にせず、ひたすら普通の生活を渇望しているわけです。二重ローンに苦しんだり、近隣のつながりを切断された阪神大震災後の「負」を見つめ、「第二の津波」と言われぬ施策が必要です。

2011年10月 2日 (日)

被災地の今、直接感じて=地元ガイドが「語り部」―宮城・南三陸

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111002-00000026-jij-soci

被災地の今、直接感じて=地元ガイドが「語り部」―宮城・南三陸

時事通信 10月2日(日)14時29分配信
 「被災地の今を見せることが使命です」―。東日本大震災で壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町で、震災前に地元の観光ガイドをしていた被災者のグループが、県外から訪れる人たちと生々しい津波の爪痕を巡り、語り部として「3・11」の体験を伝えている。
 このグループは「ガイドサークル汐風」。震災から時間がたつにつれ、悲惨さが忘れられるのではないかとの思いをメンバーが共有したのがきっかけだった。「震災学習プログラム」と名付け、7月から本格的にスタートした。
 メンバーの1人で、自宅が津波で流された阿部長記さん(75)は9月下旬、千葉県の福祉施設職員約40人を案内した。「妻と一緒に避難し高台を上ったら、人や車が濁流にすごい速さで流れていくのを見た」。巨大地震当日の凄惨(せいさん)な様子、水と電気が止まった避難所生活を話し、かつての市街地を一緒に回った。
 「東北大を目指す高校生の孫から進学を諦めると言われ、情けない思いをした」と語る阿部さん。「ボランティアに来た東北大の学生さんが『諦めずに頑張れ』と孫を励まし、教材や参考書、パソコン一式を送ってくれた。孫はまた勉強を始めた。人の絆は本当にありがたい」と涙声で話す様子に、参加者は真剣な表情で聞き入っていた。
 参加者の西川佳純さん(25)は「復旧、復興がまだまだ進んでいないことに驚いた。自分の目で見ることで悲惨さが実感として分かった。参加してよかった」と話した。 

反省乏しい東電報告案…「やむを得ぬ」多用

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111002-00000244-yom-soci

反省乏しい東電報告案…「やむを得ぬ」多用

読売新聞 10月2日(日)11時22分配信
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読売新聞
 福島第一原子力発電所の事故原因などを調査している東京電力の福島原子力事故調査委員会がまとめた中間報告案は、「やむを得なかった」との表現が多用され、事故の拡大を防げなかったことへの厳しい分析や反省の視点に乏しい。

 政府の事故調査・検証委員会の調査で明らかになった機材の誤配など、自社に不都合な内容や指摘は見あたらず、社内調査の限界を浮き彫りにしている。

 東電が2008年春に出した津波の試算は、遡上高を今回の津波とほぼ同じ、最大15・7メートルとし、同年12月に行った貞観津波(869年)をモデルとした試算は最大9・2メートルとしていた。しかし中間報告案は、これらの試算を「仮想的な『波源』を立てた試行的なもので、津波対策のベースになるものではない」と一蹴した。

 その一方で、土木学会が02年に出した「津波評価技術」に基づく、従来の想定である津波の高さ5・7メートルについて、「確立された最新の知見に基づく想定」と強調し、「今回のような大津波は想定できなかった」と結論付けた。

 初期対応の遅れについては、とりわけ「自己弁護」と受け取れる見解が目立つ。

 東電は、1号機の炉心損傷開始を「地震発生後約4時間」と解析するが、消防車による1号機への注水が始まったのは3月12日午前5時46分。格納容器内の圧力を下げるベントの成功は、同日午後2時頃だった。2、3号機では、緊急炉心冷却装置などがしばらく動いていたが、この停止後、消防ポンプによる注水再開までは6~7時間を要した。

 政府事故調の調査では、東電は手動でのベントを想定しておらず、本店が手配した機材が別の場所に誤配されたり、現場がベントや注水に必要なバッテリーや空気圧縮機の備蓄状況を把握していなかったりしたことも明らかになっている。

 だが、中間報告案は、津波によるがれきの散乱や放射線量の上昇など過酷な作業環境を強調し、注水について「厳しい環境の中、できる限り迅速な対応を行った」とした。さらに、「アクシデントマネジメント(過酷事故対策)を含むリスク低減の取り組みが効果を発揮した」とし、その根拠に自動車のバッテリーを使った弁の操作などを挙げて、「臨機かつ直接的に安全設備を操作する応用動作により、炉心の冷却を行った」と評価した。

最終更新:10月2日(日)11時22分

2011年9月28日 (水)

除染土 最大2879万立方メートル 環境省試算 東京ドーム23杯分

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2011092802000022.html
除染土 最大2879万立方メートル 環境省試算 東京ドーム23杯分

2011年9月28日 朝刊

 環境省は二十七日、東京電力福島第一原発事故で放射性物質に汚染され、今後の除染で土をはぎ取るなどして発生する汚染土壌の量をめぐり、試算結果を有識者検討会に示した。福島のほか宮城、山形、茨城、栃木の五県で年間の被ばく線量が五ミリシーベルト以上の区域を中心に除染する場合、土壌量は最大で東京ドーム二十三杯分に相当する二千八百七十九万立方メートル。除染が必要な面積も最大で福島県の17・5%に当たる二千四百十九平方キロメートルに上る。政府は福島県に中間貯蔵施設を設置する方針だが、広大な施設の整備が必要で、地元自治体との調整は難航しそうだ。

 これに関連し、細野豪志原発事故担当相は二十七日の衆院予算委員会で、十月中に中間貯蔵の在り方を含めて政府の考え方を提示する意向を表明。野田佳彦首相は「仮置き期間は何年という形で、住民の安心のためにも明示できるように努めたい」と述べた。

 推計は、年間の被ばく線量に応じて(1)二〇ミリシーベルト以上の区域を除染(2)五ミリシーベルト以上の区域を除染(3)五ミリシーベルト以上の区域を除染するのに加え、一ミリシーベルト以上五ミリシーベルト未満の区域も部分的に除染(スポット除染)-の三パターンを想定。それぞれ森林の除染面積を100%、50%、10%の三類型に分けた。

 住宅地や市街地で建物が密集している地域は、建物以外の土壌部分が全体の40%とみなし、表面を五センチはぎ取ると仮定。森林では落ち葉の回収や草刈りなどを行い、農地は表面の土五センチを除去する条件で試算した。

 その結果、五ミリシーベルト以上の区域とスポット除染を組み合わせて森林を100%除染したときに、発生する汚染土壌量は最大となった。

2011年9月25日 (日)

福島除染土、最大2800万立方m…環境省試算

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110924-00000889-yom-sci

福島除染土、最大2800万立方m…環境省試算

読売新聞 9月25日(日)3時2分配信
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読売新聞
 東京電力福島第一原子力発電所の事故で放射性物質に汚染され、除去が必要となる土壌の量と面積について、環境省の試算値が24日、明らかになった。

 被曝(ひばく)線量と森林での除染率に応じて9パターンを想定。年間5ミリ・シーベルト以上のすべての地域を対象にすると、東京ドーム23杯分に相当する約2800万立方メートル、面積は福島県の約13%に及ぶ。試算値は、汚染土を保管する仮置き場や、その後に土を運び込む中間貯蔵施設の容量の目安になる。国の除染方針を決める同省の検討会で27日に示される。

 文部科学省が福島県内で行った航空機による線量調査と、国土交通省の土地利用調査をもとに試算した。

 土壌の量と面積について、年間被曝線量がそれぞれ〈1〉20ミリ・シーベルト以上〈2〉5ミリ・シーベルト以上〈3〉5ミリ・シーベルト以上と部分的に1ミリ・シーベルト以上――と段階的に想定。これらをさらに森林での除染面積について100%、50%、10%の計九つのパターンに分け、「家屋・庭」「学校・保育所」「農地」などの数値を計算している。

 それによると、汚染土の最大量は〈3〉の森林100%で2808万立方メートル。最少量は〈1〉の森林10%で508万立方メートル。5ミリ・シーベルト以上の地域の内訳は、家屋や庭102万立方メートル、学校や保育所56万立方メートル、農地1742万立方メートルなどとなっている。その総量は森林100%の場合、2797万立方メートルで、面積は1777平方キロ・メートル。

最終更新:9月25日(日)3時2分

2011年9月24日 (土)

<二本松産米>市長「東電に怒り」 緊急会議で迅速公開表明

二本松は高村智恵子の実家の酒蔵があるところだ。これでも野田首相は再稼働を準備している。市長は東電への怒りを野田政権にもぶつけよ。(高田)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110924-00000015-mai-soci

<二本松産米>市長「東電に怒り」 緊急会議で迅速公開表明

毎日新聞 9月24日(土)11時44分配信
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福島県二本松市小浜地区の「ひとめぼれ」から500ベクレルの放射性セシウムが検出され急きょ開かれた対策会議=二本松市役所で2011年9月24日、小林努撮影
 福島県二本松市の新米予備検査で国の暫定規制値と同じ1キロ当たり500ベクレルの放射性セシウムが検出された問題で、検査をした県は公表前、予想外の数値に検査方法の誤りを疑い、検査をやり直す異例の対応を取っていた。それでも数値はほぼ変わらず、「なぜこんなに高いのか」と衝撃を受けている。地元では24日午前の緊急対策会議で、三保恵一市長が「(東京電力福島第1原発の)事故が原因で憤りを感じる」と怒りをあらわにした。

【二本松産米】予備検査で規制値検出 本検査で出荷判断へ

 二本松市小浜地区の「ひとめぼれ」から500ベクレルという結果が出たのは15日のことだった。「検査方法がおかしくはないか」。県農林水産部の幹部は担当者に疑問をぶつけ、再検査を指示した。だが、19日に出た再検査の結果は490ベクレル。県は23日夜になって、最初に出た500ベクレルを検査結果として公表した。

 県は、土壌からコメに吸収されるセシウムの移行係数を0.1(10%)とする農林水産省の指標に基づき、3月から土壌調査を先行して実施。1000ベクレルを超える地点も多数あり、当初は高い値が各地で出るのではと強く懸念していた。

 だが、8月以降の早場米と一般米の検査では、測定器の検出下限を下回る「不検出」が大半を占め、最高でも136ベクレル(福島市大波地区)で、県農林水産部は「福島の土は粘土質で、植物がセシウムを吸い上げにくいのでは」などと楽観ムードが漂っていた。

 それだけに、今回の結果の衝撃は大きい。問題の検体が植えられている水田の土壌の汚染濃度は3000ベクレル程度とされ、同部の幹部たちは「移行係数から考えると高くても300ベクレル前後のはずだが」と途方に暮れている。

 一方、二本松市で開かれた緊急対策会議には、県、同市と地元JAの関係者、集荷業者など約30人が出席。三保市長は東電に怒りをぶつけ、「食の安全を確保し、生産者を守る対策を取る。本検査を徹底して実施し、結果は迅速、正確に消費者に公開していく」と述べた。【種市房子、結城かほる】

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