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許すな!憲法改悪・市民連絡会

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2011年8月 6日 (土)

8・6東京・朝日・毎日・琉球・沖タイ、社説

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011080602000039.html
東京新聞【社説】原爆忌に考える もっともっと太い声で

2011年8月6日

 いつにも増して特別な日になりました。ヒロシマの歴史はフクシマの今にも続いています。たとえ核兵器が廃絶されても、この国に原発がある限り。

 爆心地から東へ四百六十メートルの広島市袋町小学校では、焼け残った西校舎の一部が、平和資料館として一般に公開されています。

 当時の面影を伝える玄関脇で、横長のパノラマ写真が来訪者を出迎えます。撮影は十月五日。「爆心地から南方面を望む」という説明がついています。
◆まさか福島で原発が

 原爆ドームを中心に、コンクリートの建物の四角い基礎の部分だけを残して、見渡す限り平たんな廃虚になってしまった広島の街。ところどころにがれきの山がうずたかく積まれ、橋の下には、壊れた家の材木がたまっています。はるか瀬戸内海に浮かぶ似島の三角形が、はっきりと見渡せます。

 原爆がテーマの朗読劇「少年口伝隊(くでんたい)一九四五」の制作者、富永芳美さん(61)の頭の中で、原爆の焦土と津波にさらわれた東北の港町が重なりました。震災翌日、袋町小学校に足を向け、写真の前で黙とうをささげると、少し気持ちが落ち着きました。でもまさか、福島で原発が爆発しようとは。

 少年口伝隊は、井上ひさしさんの作品です。昨年のこの日、本欄で「太い声で語りんさい」の見出しとともに、取り上げました。原爆で社屋を失った中国新聞社に組織された少年たちが、焼け跡を駆け回って口伝えでニュースを読んだ史実が基になっています。

 「大事なことはただ一つじゃ。かならず太い声で読まんさいよ」。この短いセリフの中に、反戦、反核の“太い声”を上げ続けた井上さんの思いが凝縮されています。さもないと、人は声の大きな方へ、便利な方へと、ついついなびいてしまうから。
◆ヒロシマから共感を

 昨年の七月が広島初演。ことしも七月中に市内で計五回、うち一回は原爆を生き延びた被爆電車の中での公演でした。

 原爆投下から間もない九月、広島は枕崎台風の高潮に襲われました。脚本には「やがて広島は、汚れた水をたたえた湖になった。二千十二名の命が湖の底に沈んだ」と書かれています。

 そして、口伝隊の少年たちをむしばむ放射能。目の前で進行する福島の現実を考えたとき、演出の岡本ふみのさん(32)は「今ここで、これを演じてもいいのだろうか」と自問しました。

 岡本さんはそこでもう一度、東北や福島の現状を見直します。核の恐怖は過去のものではありません。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと三たび続いた核の過ちを、もうこれ以上繰り返してはなりません。だから、ヒロシマがフクシマに寄せるヒロシマならではの共感を、一人でも多くの人に伝えたい、伝えなければならないと、考えを改めました。

 岡本さんがこの夏の舞台で最も力を入れたのは、口伝隊が「進駐してきた米兵をやんわりやさしく慰めろ」という、当局からの要請を伝える場面です。

 ついこの間まで、徹底抗戦を主張していた大人たち。為政者の変わり身の早さに少年たちは「こがあ、さかへこ(さかさま)な話があっとってええんじゃろか」と憤慨します。

 “さかへこ”なのは、日本だけではありません。原爆を落とした当の米国は、終戦から八年後、米ソの緊張が高まる中で、核の平和利用を提唱し、原爆で破壊した日本に、原子炉と核燃料を与えて自陣に引き入れます。

 日本政府は米国の“厚意”にいたく感激し、核の恐怖と原子の夢を切り分けて、原子力発電所の建設に邁進(まいしん)します。当時、日米合同で広島に原発を造る提案(米下院の決議案など)さえありました。米国の世界戦略にのっとって、恐怖を夢で塗りつぶそうとしたわけです。まさに“さかへこ”です。

 長崎では、原爆の犠牲者で、平和のシンボルのような永井隆博士さえ「原子力が汽船も汽車も飛行機も走らすことができる。(中略)人間はどれほど幸福になるかしれないね」(「長崎の鐘」)と書いています。

 しかし、博士はそのすぐあとに「人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによって、自らの運命の存滅の鍵を所持することになったのだ」と添えました。
◆原発のない次世代へ

 フクシマは教えてくれました。地震国日本では、原子の夢にまどろむことはできないと。核の恐怖と原子の夢、ヒロシマとフクシマの空は続いているのだと。

 私たちも去年以上に、もっとずっと腹の底から“太い声”を絞り出し、核兵器のない国同様、原発のない国を次の世代に残そうと、語らなければなりません。


http://www.asahi.com/paper/editorial.html

朝日新聞社説:原爆投下と原発事故―核との共存から決別へ

 人類は核と共存できるか。

 広島に原爆が投下されて66年の夏、私たちは改めてこの重く難しい問いに向き合っている。

 被爆体験をもとに核兵器廃絶を世界に訴えながら、核の平和利用を推し進める――。

 核を善悪に使い分けて、日本は半世紀の間、原子力発電所の建設に邁進(まいしん)してきた。そして福島第一原発で制御不能の事態に陥り、とてつもない被曝(ひばく)事故を起こしてしまった。

■平和利用への期待

 こんな指摘がある。

 日本は、広島・長崎で核の恐ろしさを身をもって知った。なのにその経験を風化させ、いつしか核の怖さを過小評価したために再び惨禍を招いたのではないか。

 歴史をさかのぼってみる。

 かつては被爆者自身も核の平和利用に期待を寄せていた。

 1951年、被爆児童の作文集「原爆の子――広島の少年少女のうったえ」が刊行された。平和教育の原典といわれる本の序文で、編纂(へんさん)した教育学者、故長田新(おさだ・あらた)さんは書いている。

 「広島こそ平和的条件における原子力時代の誕生地でなくてはならない」

 長田さんの四男で、父とともに被爆した五郎さん(84)は当時の父の心境をこう解説する。

 原爆の非人道性、辛苦を克服しようと父は必死に考えていた。原爆に使われた技術が、平和な使途に転用できるなら人間の勝利であると――。

 平和利用への期待は、被爆体験を省みなかったためではなく、苦しみを前向きに乗り越えようとする意思でもあった。

 53年12月、アイゼンハワー米大統領の演説「原子力の平和利用」を機に、日本は原発導入に向け動き出す。54年3月、日本初の原子力予算が提案された。

 その2週間後、第五福竜丸が水爆実験の「死の灰」を浴びたことが明らかになる。原水爆禁止運動が全国に広がったが、被爆地の期待も担った原発が後戻りすることはなかった。

■影響の長期化は共通

 それから57年――。

 広島、長崎、第五福竜丸、そして福島。ヒバク体験を重ねた日本は、核とのつきあい方を考え直す時に来ている。それは軍事、民生用にかかわらない。

 放射線は長い年月をかけて人体にどんな影響を及ぼすのか。原爆についていま、二つの場で議論が進む。

 一つは原爆症認定訴訟。国は2009年8月、集団訴訟の原告と全面解決をめざす確認書をかわし、救済の方針を示した。

 しかし昨年度、認定申請を却下された数は前年の倍以上の5千件に及んだ。多くは原爆投下後、爆心地近くに入り被爆しても、放射線と病気との因果関係が明確でないと判断された。

 被爆者手帳をもつ約22万人のうち、医療特別手当が受給できる原爆症に認定された人は7210人と3%強。前年の2.8%から微増にとどまる。

 もう一つの場は、原爆投下後に降った黒い雨の指定地域を広げるかどうかなどを考える厚生労働省の有識者検討会だ。

 広島市などの調査で、放射性物質を含んだ黒い雨の降雨地域が現在の指定地域の数倍だった可能性が浮上した。指定地域にいた人は被爆者援護法に基づく健康診断などを受けられる。

 健康不安に悩む多くの住民の声を受け、国は指定地域を科学的に見直す作業を続けている。

 一方、原発事故が起きた福島では長期にわたる低線量放射線の影響が心配されている。

 福島県は全県民を対象に健康調査に着手した。30年以上にわたって経過を観察するという。

 まず3月11日から2週間の行動記録を調べ、場所や屋外にいた時間などから被曝線量を推計する。

 被爆と被曝。見えない放射線の影響を軽減するため、息の長い作業が続く点が共通する。

■次世代への責任

 核エネルギーは20世紀の科学の発達を象徴する存在である。

 私たちは、一度に大量の人間を殺害し、長期にわたって被爆者を苦しめてきた核兵器の廃絶を繰り返し訴えてきた。

 世界各国に広がった原発も、同じ燃料と技術を使い、危険を内包する。ひとたび制御を失えば、人間社会と環境を脅かし続ける。その安全性のもろさが明白になった以上、原発から脱却する道も同時に考えていかなければならない。

 世界には推定で約2万3千発の核弾頭がある。原発の原子炉の数は約440基だ。

 道のりは長く、平坦(へいたん)ではないだろう。核被害の歴史と現在に向き合う日本が、核兵器廃絶を訴えるだけではなく、原発の安全性を徹底検証し、将来的にゼロにしていく道を模索する。それは広島、長崎の犠牲者や福島の被災者、そして次の世代に対する私たちの責任である。

 核との共存ではなく、決別への一歩を先頭を切って踏み出すことが、ヒバクの体験を重ねた日本の針路だと考える。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20110806k0000m070166000c.html
毎日新聞社説:原爆の日 経験を原発にも生かせ

 原爆が投下されて6日で66年。今年の夏は、いつもと様相が異なっている。3月11日に発生した東日本大震災は東京電力福島第1原発事故を引き起こした。地震と津波で壊滅した東北の町並みと、放射性物質による汚染によって住民が避難を余儀なくされた福島を、爆風と熱線によって廃虚と化した故郷と重ね合わせた広島と長崎の被爆者は少なくない。私たちは原子力の利用がはらむ危うさと今、向き合っている。

 今年の平和記念式典で読み上げられる「平和宣言」は原発事故を反映したものになる。

 広島市は初めてエネルギー政策の早急な見直しと具体策を政府に求める。引用するのは、核の軍事、平和利用双方に反対を唱えた被爆者で、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)議長などを務めた故森滝市郎氏の「核と人類は共存できない」との言葉だ。長崎市は、「脱原発」の言葉こそ使わないが、原発からの将来的な脱却を明確に打ち出す。

 被爆者・反核団体にも変化が見える。被爆者の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」は1956年の結成以来初めて全原発の順次停止・廃炉を求める「脱原発」を運動方針に掲げることを決めた。

 放射線被害に苦しんできた経験を踏まえ、原発の周辺住民や作業員に「健康管理手帳」を交付し、定期的な健康診断を実施するよう求める要望書を政府などに提出した。

 原水禁も、原発事故を受けて初めて福島で世界大会を開催し、「脱原発」を訴えた。

 運動は一枚岩ではない。「平和運動と日本のエネルギー政策にからむ原発の是非は分けて考えるべきだ」という主張があるのも事実だ。

 すさまじい破壊力で一瞬にして大量の放射線を放出した原爆と、低線量の放射性物質の影響が広範囲で続く原発事故の違いは大きい。だが、人々が放射線被ばくによる不安に長年苦しめられる点は共通する。

 原発事故の場合、低線量被ばくの影響に未解明の部分があることが不安を大きくしている。原爆との違いも考慮したうえで、広島と長崎の被爆者を対象に放射線の影響を調査している放射線影響研究所など、専門研究機関が蓄積してきた専門知識やチェルノブイリ事故の経験を住民の健康管理に積極的に活用したい。

 核兵器と原発はこれまで切り離して考えられてきた。近年は原子力に対する「安全神話」も浸透していた。しかし、福島の事故は原発の危険性に改めて目を向けさせた。唯一の被爆国としての経験を原発対策にも生かしながら、従来にも増して核廃絶のメッセージを発信し続けるのが私たちの責務である。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-180191-storytopic-11.html
琉球新報社説
広島原爆の日 核に「ノー」叫び続けよう2011年8月6日   

 きょうは原発震災後初の広島原爆の日だ。原子力の災禍を目の当たりにした今ほど、国民が被爆体験から学ぶ意義を認識したことはないだろう。被爆の実相を胸に刻んで今後の針路を定めることが、犠牲者に対する責任だと考える。
 従来、原爆による被害は専ら外部的な被爆のみで語られてきた。
 確かに、すさまじい熱線、爆風の恐ろしさは言うまでもない。だが、「内部被曝(ひばく)」の恐ろしさにも同様に注意を払うべきだったのではないか。
 政府は原爆症について2週間以内・2キロメートル以内に立ち入った、いわゆる二次被害までしか認定しようとしなかったが、集団訴訟は19回も連敗し続けた。敗訴は国の認定基準の誤りを示している。
 2キロ以遠、あるいは数週間後の立ち入りも被害を生むということだ。すなわち、放射性物質が付着したほこりや食物を体内に取り込む内部被曝の被害を物語る。
 矢ヶ崎克馬琉球大名誉教授の著書「隠された被曝」によると、原爆投下後13日目から救護のため市内に入った広島県立三次(みよし)高等女学校の生徒は、76歳時点での生存率がたった43%だという。全国平均が84%であることを思えば、内部被曝による影響は明らかだ。
 日本の小児がん死亡率は戦後5年目から急増した。大気圏内の核実験が続いた後の1965年時点では戦前の7倍に達する。内部被曝の影響とみるべきではないか。
 戦後、占領軍は放射能被害をひた隠しにした。「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避けるため、被爆者の治療をさせなかったことも米国の公文書で明らかになっている。
 数年、数十年の長きにわたって被害を生む内部被曝の恐ろしさが閑却されてきたのは、原爆が「特別な兵器」でないと強弁する米国の利益のためでなかったか。
 そして米国の望む通り、核への抵抗感を拭って「原子力の平和利用」、すなわち原発推進に突き進んだ結果が今回の原発事故ではなかったか。
 事故は、原子力がひとたび暴走すると制御し難い未成熟の技術だと白日にさらした。作家の村上春樹氏の弁を借りれば、日本にとって「二度目の大きな核の被害」だ。
 村上氏の言う通り、日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべき」だ。そして「原発に代わるエネルギーを追求」することで、犠牲者への責任を果たしたい。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-08-06_21675/
広島・原爆の日]日本には人類的責務が
全国

2011年8月6日 09時24分   
(3時間13分前に更新)

 米軍が広島に原爆を投下してから66年目の夏を迎える。

 平和宣言はこれまで核兵器の廃絶をメーンに据えていたが、就任後初めて平和記念式典に臨む被爆2世の松井一実広島市長は、東京電力福島第1原発事故を受け、「国民の信頼が失われた」として、国に早急にエネルギー政策を見直すよう求める。平和宣言で、原子力の平和利用に疑問を呈するのは初めてだ。

 原発の賛否については明示しないが、「脱原発を主張する人々がいる」との表現で「脱原発」に言及する。

 有名な「核と人類は共存できない」との言葉を引用する。原水禁日本国民会議議長を務めた倫理学者、故森滝市郎氏の言葉である。同氏は原子力の平和利用を認める時期があったものの、軍事利用はもちろん、平和利用にも反対する「核絶対否定」の立場をとったことで知られる人物だ。

 日本は唯一の被爆国として戦後、原子力を軍事利用と平和利用に峻別(しゅんべつ)し、核兵器の廃絶を訴える一方で、商業的な平和利用は推進してきた。現在54基の原発を抱える世界第3位の原発大国である。

 平和宣言で原発問題を取り上げるのは1986年以来だ。同年4月に起きた旧ソ連・チェルノブイリ原発事故について「一国の事故が他国にも禍(わざわ)いを及ぼすことを知らしめ、世界は核時代の現実に慄然(りつぜん)とした」と触れている。

 長崎市の田上富久市長も9日の平和宣言で再生可能エネルギー開発を訴える。両被爆地の市長が原子力の平和利用に疑義を唱えている。

 今後原子力にどう向き合っていくか。広島、長崎からの提起を国民的議論の出発点にしたい。

 日本に原発が導入された経緯を振り返るとこうである。

 アイゼンハワー米大統領は1953年12月、国連総会の演説で「アトムズ・フォア・ピース」(原子力の平和利用)を提唱した。同年8月に旧ソ連が水爆実験に成功し、米国の核の独占体制が崩壊、牽制(けんせい)する狙いがあった。

 大統領演説の直後の54年3月には、米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行い、第五福竜丸の乗組員23人が「死の灰」を浴びた。広島、長崎に次ぐ第三の被ばくとして反核・反米感情が高まり、原水爆禁止運動が全国的なうねりとなって広がった。

 米国は日本に原子力の平和利用への技術協力に乗り出す。核アレルギーを払拭(ふっしょく)するためである。55年からはメディアを巻き込み、広島など全国各地で「原子力平和利用博覧会」が開かれ、世論も徐々に核兵器とは別物という意識が形成されるようになった。

 原発事故はまだ収束しておらず、原子力の脅威に軍事も平和利用もないことを露呈させた。いったん深刻な事故が起きれば長期間にわたって人間の生存を脅かす。

 原発の暴走を制御するすべを人類はまだ持ち合わせていないのである。

 日本は原爆を投下され、平和利用でも原発事故を引き起こした世界で唯一の国である。原子力そのものが持つ危険性を訴える歴史的、人類的な責務がある。

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