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許すな!憲法改悪・市民連絡会

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2011年8月 5日 (金)

「原発には鈍感だった」 平岡敬さんに聞く

平岡さんのこの記事をMLで知りました。遅ればせながら敬意を込めて掲載します。一貫して正しいのがえらいのではない、そう言うことはなかなかあり得ない。間違いに気づいたら率直に認め、実践するのがえらいのだ。先日のヒロシマでの母親大会での吉永小百合さんの発言でもそう思った。私たちはそうありたい。(高田)

http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/fukushima/editorial/Fe201107130005.html
「原発には鈍感だった」 平岡敬さんに聞く

 中国新聞記者を経て、1990年代に広島市長を2期務めた平岡敬さん(83)に、原発をどう捉えてきたかを聞いた。「文明享受の必要悪として、私も原発を容認してきた」。福島第1原発事故を機に「平和利用」も考え直すべきだとの認識を示した。

 ―広島での原子力平和利用博覧会をどう感じましたか。

 当時、中国新聞に入社5年目。記事に見出しを付ける整理部に所属していた。博覧会を見て非常に感動した。夢のような話ばかりで、展示品のマジックハンドが印象に残る。竹やりで戦おうとするなど戦時中の日本は精神主義だった。その反動から、国民の多くは科学技術を無批判に信仰していたのではないか。

 ―博覧会に対して報道機関も歓迎ムードだったのでしょうか。

 旧ソ連との核兵器開発競争もあり、米国は日本での反米、反核ムードの盛り上がりを恐れた。今からみれば核の陰の部分を隠し、日本人を「洗脳」しようとしたのが博覧会だ。中国新聞の記事も歓迎一色だった。1952年までは連合国軍総司令部(GHQ)の報道統制で、原爆の放射線障害は十分な報道ができなかった。戦時中に大本営発表をうのみにしてきた惰性もあったのではないか。

 ―その後、反核・平和報道で原発はどう位置付けられましたか。

 私も記者として、在韓被爆者問題や核兵器廃絶を訴える記事を書き続けた。軍事利用の危険性には目を向けてきたが、原発が核被害を起こす恐れには鈍感だった。今、それを反省している。

 ―市長時代は。

 平和記念式典の平和宣言で、「原発反対」とは一度も言わなかった。就任1年目の91年、チェルノブイリ原発事故(86年)の被害者救済を世界の先頭に立って進めようと訴えただけだ。広島に原発がないことが一つの理由かもしれない。また原発で生み出した電気を使いながら反原発を叫ぶ矛盾が、「核の傘」に守られながら核兵器廃絶を訴える欺瞞(ぎまん)と通じている気もしていた。

 ―福島第1原発事故を受け、今の考えはどうですか。

 放射性物質の人類に対する脅威について、軍事利用も平和利用も区別がないことを今さらながらに気付かされた。今の利潤追求社会では、警鐘を鳴らす研究成果もゆがめられ、黙殺されてきた。恐ろしいことだ。必ずしも、原発に固執すべきではない。「経済か、命か」という選択ならば、その答えは決まっている。

 ◇ ◇

 ひらおか・たかし 1927年、大阪市住吉区生まれ。早大卒。52年中国新聞社に入社し、75年から7年間編集局長を務めた。86年、中国放送(RCC)社長。91年から広島市長を2期8年間務めた。

【写真説明】「ヒロシマも原発論議を始めねばならない」と話す平岡さん

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