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2011年2月13日 (日)

鳩山氏「抑止力は方便」本紙インタビュー/辺野古回帰 理屈付け/普天間移設 戦略の欠如 陳謝

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-13_14499/

鳩山氏「抑止力は方便」本紙インタビュー/辺野古回帰 理屈付け/普天間移設 戦略の欠如 陳謝

   

2011年2月13日 09時15分                        

 【東京】鳩山由紀夫前首相は12日までに沖縄タイムス社のインタビューに応じ、米軍普天間飛行場の移設をめぐる政権時の取り組みや対米交渉の全容を語った。移設先を名護市辺野古と決めた理由に挙げた在沖海兵隊の抑止力について「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈付けしなければならず、考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った。方便と言われれば方便だった」と弁明し、抑止力論は「後付け」の説明だったことを明らかにした。

 さらに「海兵隊自身に抑止力があるわけではない。(陸海空を含めた)四軍がそろって抑止力を持つ。そういう広い意味では(辺野古移設の理由に)使えるなと思った」と語った。前首相が抑止力を後付けとする理屈を挙げたことで、あらためて日米合意の是非に関して論議を呼びそうだ。

 2009年12月上旬に現行案での決着を逡巡(しゅんじゅん)したと明かした上で、その時点でホテル・ホテル訓練水域の制限解除など、昨年5月の日米合意に盛り込まれた負担軽減策の骨格は米側から引き出せていたと指摘。「軽減策とのパッケージで辺野古に理解がもらえるか考えたが、政治的に持たないと判断し(移設先決定を)延期した」と述べた。

 日米合意の直前には沖縄、日本政府、米国の三者による協議機関の設置構想を持ち、5月の2度目の来県時に仲井真弘多知事へ打診したと明かした。知事が「知事選前にそのようなことはできない」と話したため、構想を断念したという。

 決着期限を10年5月としたのは7月の参院選の争点化を避けるためだったと明言。5月の大型連休に渡米しオバマ米大統領との直接交渉を検討していたとし、実現できなかったことを「後悔している」と振り返った。

 

09年の衆院選で「最低でも県外」と掲げたことについては「民主党の沖縄ビジョンに書かれていることを言った。順序立てた見通しがあったというより『しなければならない』という使命感だった」と述べ、戦略性が欠如していたことを認めた。結果的に実現できなかったことには「詰めの甘さがあった。申し訳なく思っている」と陳謝した。

 県外の移設先として鹿児島県徳之島を模索し始めたのは09年内の決着を先送りした直後だったとし「地上部隊を沖縄に残してヘリ部隊だけを移すとなると距離的にギリギリと考えた」と説明。徳之島が自身の「腹案」だったと明かした。

[ことば]

 抑止力 軍事・外交戦略上の用語として、一般的には、部隊や武器を保有して、いつでも報復できる構えを維持することで、相手国からの攻撃や侵略を未然に抑え込む能力のことを指す。鳩山前首相は米軍普天間飛行場の沖縄県外移設を断念した理由を「学べば学ぶにつけ、海兵隊のみならず沖縄の米軍が連携して抑止力を維持していると分かった」と説明していた。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-173438-storytopic-53.html
「抑止力は方便」断念理由後付け 鳩山前首相、普天間で証言2011年2月13日   

 【東京】鳩山由紀夫前首相は12日までに琉球新報などとのインタビューに応じ、米軍普天間飛行場の移設交渉の全容を初めて語った。「県外移設」に具体的な見通しがなかったことを認めた。「県外」断念の理由とした在沖米海兵隊の「抑止力」については「辺野古しか残らなくなった時に理屈付けしなければならず、『抑止力』という言葉を使った。方便といわれれば方便だった」と述べ、「県内」回帰ありきの「後付け」の説明だったことを明らかにした。在沖海兵隊の「抑止力」の根拠の薄弱さを浮き彫りにした前首相の歴史的証言は、県民の反発と波紋を広げそうだ。
 海兵隊の抑止力については「一朝有事のときに米国人を救出する役割だから、存在自体が直接、戦争の抑止、攻撃の抑止になるわけではない。全体として4軍そろっていることが必要で、全て連関している中での抑止力となる」と説明。
 米側とは「県外移設」に向けた具体的交渉はなく、「最後はオバマ米大統領との間でやるような話だったと今、後悔している」と述べた。「県外」困難視の閣僚や辺野古案支持の官僚を最後まで統率できなかったことを力量不足と振り返った。
 訓練区域の一部解除など2010年5月の日米共同声明に盛り込んだ沖縄の負担軽減策は「ほぼ同じものが既に09年12月には(了解を)取れていた」と説明。09年内に「辺野古」決着に一時傾きかけたとも明かした。
 10年5月の2回目の来県で仲井真弘多知事に日米と沖縄で協議のテーブルに着いてほしいと打診したが、知事選を理由に断られたという。県外移設を実現できなかったことに「県民に申し訳ない」と謝罪した。
 新基地の使用期限設定を事務方に指示したことにも言及した。だが事務方は米側が期限を区切ることに強く難色を示していると説明し実現しなかった。「辺野古」回帰に向かう中、元首相補佐官の岡本行夫氏から何度も辺野古移設に向けた説明を受けたという。
 嘉手納統合案を掲げた岡田克也外相(当時)や「県外」困難視の北沢俊美防衛相など閣内不一致だった状態は「大いに自由闊達(かったつ)に議論し合おうと進めてきた」と政権方針で放任していたと弁明。一方、自らが進める「県外」に集約できなかったことに「統率を取ってできなかったのは悔やまれる」と反省した。決着期限の10年5月は、3月の予算成立後で7月の参院選の争点化を避けたタイミングだったと説明。5月の大型連休にオバマ大統領と直接交渉も検討していたという。
 鳩山氏は、1月下旬と2月上旬の2度、計3時間、東京都内の衆院議員会館でインタビューに応じた。

<用語>抑止力
 軍事・外交戦略上の用語として、一般的に部隊や武器を保有し、いつでも報復できる構えを維持することで、相手国からの攻撃や侵略を未然に抑え込む能力。鳩山前首相は米軍普天間飛行場の沖縄県外移設を断念した理由を「学べば学ぶにつけ、海兵隊のみならず沖縄の米軍が連携して抑止力を維持していると分かった」と説明していた。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-13_14517/

「軽い」前首相に怒り 
後悔するより日米合意見直しを
名護や宜野湾 市民ら責任指摘

2011年2月13日 09時21分                        
(4時間51分前に更新)

 「あまりにひどい」「日米合意を見直すべきだ」―。鳩山由紀夫前首相が米軍普天間飛行場の移設先を名護市辺野古に決めた際、その理由に挙げた「海兵隊の抑止力」は後付けだったとの発言に、日米合意で移設先とされた名護市や、日々の騒音や墜落の不安にさらされる宜野湾市の関係者などからは、激しい怒りの声が上がった。

 稲嶺進名護市長は「国のトップである首相の発言が、こんなに軽々しいものだったとは考えられない」と述べ、無責任な対応に憤りをあらわにした。

 辺野古に戻そうという官僚の抵抗があったと、鳩山氏が明かしたことには「政治主導と言いながら結局、官僚の壁を越えられなかった。それが原因で、沖縄の混迷の状況が生まれている。非常に大きな責任がある」と指摘した。

 鳩山氏が「公約を実現できず後悔している」と述べたことには「当時の状況を踏まえて、日米合意を菅首相に見直すよう伝え、民主党内でもあらためて、議論してほしい」と要望した。

 キャンプ・シュワブ前で毎週ピースキャンドルを続け、移設反対を訴える渡具知武清さん(54)は「鳩山さんが県外移設に向けて具体的に動いたとは思えない。テーブルの上だけで議論したのだろう。結局、辺野古への逃げ道を残していたということだ」と怒りを抑えきれない。

 宜野湾市の山内繁雄基地政策部長は「海兵隊が抑止力にならないことは、運用の実態をみれば分かることだ」と切り捨てた。「それなのに菅首相が辺野古移設を引き継いでいるのはおかしな話だ。沖縄に海兵隊は必要ない」と批判した。

 「ひどいねえ、ばかにした話だ。あきれてしょうがないよ」。普天間基地爆音訴訟団幹事の栄野川安邦さん(77)は落胆した。「県民を愚弄(ぐろう)している。沖縄を政治の道具に利用しているようにみえる」と憤った。

 我部政明琉球大学教授(国際政治)は「鳩山さんが辞めるよりも公約を守るために続けることが、政権交代後初の首相としての責任の取り方だった。辞めたことで、次の菅首相は沖縄の基地問題の責任を逃れたかのような形になった」と指摘。「(辺野古回帰を)官僚の責任にしているが、閣僚などの批判はしていない。首相としてのリーダーシップの自覚のなさが発言に表れている。米国と交渉する準備すらできていなかった」と指摘した。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-173440-storytopic-53.html
鳩山前首相一問一答 見通しなく「県外」発言2011年2月13日   

 ―2009年衆院選で移設先は「最低でも県外」と発言した際の見通しは。
 「民主党は沖縄ビジョンの中で、過重な基地負担を強いられている沖縄の現実を考えた時に、県民の苦しみを軽減するために党として『最低でも県外』と決めてきた。鳩山個人の考えで勝手に発言したというより党代表として党の基本的考えを大いなる期待感を持って申し上げた。見通しがあって発言したというより、しなければならないという使命感の中で申し上げた。しっかりと詰めがあったわけではない」
 ―首相就任後もなぜ「県外」が党内、閣内で浸透しなかったのか。
 「政権を取った後の難しさで、簡単じゃないとの思いから腰が引けた発想になった人も多かった。閣僚は今までの防衛、外務の発想があり、もともとの積み重ねの中で、国外は言うまでもなく県外も無理だという思いが政府内にまん延していたし、今でもしている。その発想に閣僚の考えが閉じ込められ、県外の主張は私を含め数人にとどまってしまった」
 ―当初、大きな問題になると考えていたのか。
 「最終的に首相を辞する大きなテーマになるとは予測していなかった」

◆常時駐留なき安保
 ―常時駐留なき安保はなぜ封印したのか。
 「信念としては今も生きている。封印したのは、旧民主党では十分主張していたが、今の政権を取った民主党内では残念ながら市民権を得ていなかった。普天間移設の問題でも、常時駐留なき安保という文言は使わなくてもその方向に導いていきたかったので、『国外、最低でも県外』と何度も言った」

◆漏れた機密
 ―閣僚の発言はバラバラだった。
 「岡田(克也)君は外相当時、マニフェスト(政権公約)に『県外』とまで書かなかったと話したが、民主党が圧倒的な国民の支持を得て政権を中心的につくらせてもらったのだから、党のビジョンはしっかり打ち出すべきだと思った。一致して行動していただきたいという思いはあった」
 ―常時駐留なき安保を実現させる布陣を目指さなかったのか。なぜ北沢俊美氏を防衛相に選んだのか。
 「北沢氏は外務防衛委員長をしていて防衛関係に安定した発想を持っているということだった。テーマを決めてそのための大臣だという前に、リストを決めてその中で一番ふさわしい人という形で当てはめていった」
 「北沢防衛相は、政権交代後、どこまで防衛省の考え方を超えられるか、新しい発想を主張していくかということが本当はもっと勝負だった気がする」
 ―外務、防衛両省に新しい発想を受け入れない土壌があったのでは。
 「本当に強くあった。私のようなアイデアは一笑に付されていたところはあるのではないか。本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった。官邸に両省の幹部2人ずつを呼んで、このメンバーで戦っていくから情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になった。極めて切ない思いになった。誰を信じて議論を進めればいいんだと」
 「自民党(政権)時代に相当苦労して(県内移設という)一つの答えを出して、これ以上はないという思いがあり、徐々にそういう方向に持っていこうという意思が働いていたのではないか。彼らが米国と交渉すると、信頼するしかない。これ以外ない、これ以上は無理だとなった時に、その先を進めることはなかなかできなかった。自分自身の力量が問われた」
 「防衛省も外務省も沖縄の米軍基地に対する存在の当然視があり、数十年の彼らの発想の中で、かなり凝り固まっている。動かそうとしたが、元に舞い戻ってしまう」

◆密使、候補はいた
 ―味方はいたのか。
 「平野博文官房長官(当時)は(望みをかけた)徳之島をいろいろと模索してくれた。少なくとも1人はいた」
 ―密使を使う考えはあったのか。
 「やりたい発想はあり、やってくれそうな方もいて検討はしたが、非常に難しかった」
 ―県内移設理由として在沖米海兵隊の抑止力は唐突感があった。
 「徳之島も駄目で辺野古となった時、理屈付けをしなければならなかった。海兵隊自身が(沖縄に)存在することが戦争の抑止になると、直接そういうわけではないと思う。海兵隊が欠けると、(陸海空軍の)全てが連関している中で米軍自身が十分な機能を果たせないという意味で抑止力という話になる。海兵隊自身の抑止力はどうかという話になると、抑止力でないと皆さん思われる。私もそうだと理解する。それを方便と言われれば方便だが。広い意味での抑止力という言葉は使えるなと思った」

◆オバマ大統領の手紙
 ―日米首脳会談での発言が物議を醸した。
 「沖縄県民に理解されながら、米国にも合意してもらえる案が必ず作れるという気持ちは持っており、私という人間を信じてくれという意味で『トラスト・ミー』という言葉を使った。昨年7月にオバマ米大統領から手書きのレターが来て『あなたは自分の言葉に忠実だった』と書かれていた。日米関係が大変毀損(きそん)したと(メディアに)書かれたが、少なくとも7月の段階ではそうではない」
 「残念ながら沖縄の皆さんに理解してもらえる案にはなっておらず申し訳なく思っている。政府と沖縄との信頼関係が大きく毀損したのは事実で本当に申し訳ない。大変残念だ」
 ―09年末までに一度、県内移設を決断したのではないか。
 「トラスト・ミーという言葉まで使い、県外移設のめどが立たない現実があった。一方で(09年12月段階で)最終的に昨年5月28日に発表したもの(沖縄の負担軽減策)と同じようなものが既に(了解を)取れていた。ここを前面に出し、沖縄の理解をいただき辺野古は仕方がないと感じた瞬間はなかったと言えばうそだ」
 「しかし仲井真弘多沖縄県知事の意向なども伺いながら、沖縄県民に対する裏切りで政治的に持たないと判断し決着時期を延期した」

◆幻の直接交渉
 ―決着時期を昨年5月とした理由は。
 「米国として(09)年内の決着を期待しているものを1年は延ばせない、せいぜい半年という思いがあった。3月までは予算で動けない。社民党の党内事情もあった。普天間を争点にしたら7月の参院選を戦えない。ゴールデンウイークに米国に行き、(オバマ氏と)直接交渉しようと思っていたが、(政府案が)まとまっていなかった」
 ―昨年3月の韓国海軍哨戒艦沈没の影響は。
 「現実に北朝鮮の脅威を感じた。ある意味で戦争行為。(移設先が)辺野古に舞い戻らざるを得なくなって来る時の現実の脅威が、てこみたいに働いてきた」

 ―「腹案」とは。
 「徳之島に移設先を見いだしたかったので腹案という言い方をした。米軍も最後には、訓練の一部を移すことは検討できるということだったから、日米共同声明の中で『徳之島』という文言は生きている」

◆遠かった政治主導
 ―県内移設の最終判断は。
 「徳之島を諦めざるを得ないと結論を出した時。4月28日に(元衆院議員の)徳田虎雄氏と会い、(理解を得られず)完全に徳之島が閉ざされた」
 「沖縄と日本政府と米国との3者が協議機関をつくり、政府原案を議論する舞台ができれば乗り切れると思った。5月に仲井真知事と2回目に会った時に、知事選まではできないと言われ、沖縄の理解を得るところまで行かなかったと基本的に観念した」
 ―今後の交渉は。
 「普天間の移設先も固定化してはいけない。未来永劫(えいごう)、米国の基地として使わせるつもりで造ってはいけないという話は平野官房長官との間では認識していた。沖縄は納得していない。理解を得るためには日米合意には入っていないが、(基地としての使用に期限を設ける)暫定しかない(ようにする)とか、交渉のやり方はあってしかるべきだ」
 「(沖縄から)ある程度の距離があっても(米軍が)ワンパッケージであれば十分、抑止力という言葉で成り立つ」
 ―反省点は。
 「相手は沖縄というより米国だった。最初から私自身が乗り込んでいかなきゃいけなかった。これしかあり得ないという押し込んでいく努力が必要だった。オバマ氏も今のままで落ち着かせるしか答えがないというぐらいに多分、(周囲から)インプットされている。日米双方が政治主導になっていなかった」

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-13_14503/

頓挫した県外の理念 徳之島拒否で窮地に
政治主導実現できず

2011年2月13日 09時15分                      

 【東京】米軍普天間飛行場の移設先をめぐる鳩山政権の検討過程は、県外・国外という理念を表明したものの約2カ月ほどで名護市辺野古にUターン。2009年12月、鳩山由紀夫前首相の肝いりで決着を先送りしたが、最後は徳之島(鹿児島県)に望みを託すしかない窮地に追い込まれた。

 09年11月には来日したオバマ大統領と会談。「トラスト・ミー」発言で米側は辺野古案に戻ると考えた。一方で、鳩山氏は米側、沖縄双方が理解する解決案を作れるという期待感をまだ抱いていた。

 しかし防衛、外務などの官僚の厚い壁に阻まれ、次第に県内移設の包囲網が強まる中、12月上旬に辺野古移設の決断間際まで追い込まれたが、鳩山氏の独断で来年5月末の決着期限を設定した。

 その直後、首相側近の牧野聖修衆院議員から徳之島への移設を打診され、水面下で検討するよう指示した。

 その後「腹案」として可能性を模索したが地元の猛烈な反対で頓挫した。

 年明けから連立3党で県外移設先約40カ所を検討してきた平野博文元官房長官は、勝連沖埋め立て案を有力視し、米側や地元関係者と頻繁に接触していた。図面も含めた具体案を固めつつあったが、鳩山氏から徳之島を検討するよう指示され、勝連案を諦めた。

 鳩山氏が辺野古回帰を決断したのは4月末。同月28日に徳之島出身の徳田虎雄元衆院議員と面会し、同島への移設を断念した直後だった。

 それでも自民党時代の現行案に戻ることに難色を示し、くい打ち桟橋(QIP)方式や環境共生型の埋め立てなど、工法で違いを出し、活路を見いだそうとしたが、具体化しなかった。

 結局、09年12月時点で感触をつかんでいた沖縄の負担軽減策をさらに肉付けした形で、辺野古移設を明記した日米合意を結んだ。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-13_14504/

[解説]「脱官僚」内実は依存
鳩山氏インタビュー
閣内も意思統一されず「普天間合意」の再構築を

2011年2月13日 09時15分                        
(4時間59分前に更新)

 米軍普天間飛行場を「最低でも県外」に移設すると明言し、最終的に断念した鳩山由紀夫前首相の話からは、自らの思いとは裏腹に、官僚の抵抗に遭いながら政府内で思いを共有できず挫折した構図が浮かび上がる。迷走を重ねた末に、名護市辺野古に回帰する理由として挙げた海兵隊の抑止力論も、実はつじつま合わせの「方便」だった。昨年5月に「学べば学ぶほど」県内移設しかないと悟ったという鳩山氏の説明が合理的理由にならないことは明らかだ。=東京支社・西江昭吾

 鳩山政権の後を継いだ菅直人首相は辺野古に移すとした日米合意を堅持し、負担軽減策などで県民の理解を得るとしている。ただ、合理的理由のない県内移設案で県外移設を求める県民の理解は得られない。むしろ、日米合意のリニューアルをホワイトハウスに働き掛けることが、普天間問題解決の早道だろう。

 民主党政権は政権交代の象徴として「政治主導」と「脱官僚依存」を掲げていた。

 だが内実はわずか数カ月で、現行案にこだわる米側の意向を背景とする官僚側に押される形で名護市辺野古移設に戻されていた。

 その「米側の意向」も、あくまで外務、防衛両省を通して官邸に伝えられた情報だ。辺野古以外の県外・国外の可能性は本当に皆無だったのか。政治家が独自に情報を入手するルートを持てなかったことが官僚に頼らざるを得ない状況に追い込まれた一因と言える。

 鳩山氏はインタビューで、持論の「常時駐留なき安全保障」が県外・国外移設を訴えた原点だと明かした。しかし政権奪取後、党内で自身の考え方が浸透せず「封印」したという。少なくとも政権発足前に関係閣僚との間で基本認識の共有を図ることが必要だった。

 その上で、鳩山氏が悔やむように、ホワイトハウスに乗り込んでオバマ大統領と直談判し、政権として断固とした姿勢を示していれば、違った展開になった可能性はゼロではない。

 関係閣僚が日替わりで発言し、閣内の意思統一がままならないと外部の目に映るようでは、対米交渉の土台が不十分だったと言われても仕方がない。

 政権発足時に最重要課題へ立ち向かう準備不足がつまずきの発端だったとはいえ、一国の首相でさえ、自らの考えを実現できない政治家と官僚組織の関係性も問われている。

 先月に来日したゲーツ米国防長官が言及したように、普天間移設の行方次第で日米関係が壊れるという考え方は誤りで、沖縄の基地問題はあくまで両国の懸案事項の一部にすぎない。

 そうであるなら、膠着(こうちゃく)する移設問題を前進させるには、鳩山前政権では持ち得なかった政権の覚悟が求められる。

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