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許すな!憲法改悪・市民連絡会

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2010年4月12日 (月)

井上ひさしさん、ありがとうございました

小森陽一さんから、深夜、電話が入った。沈んだ声で、「井上さん、なくなられました」と。「あっ」と思った。
昨年から肺ガンを患っておられ、秋の福井での九条の会講演会を直前にキャンセルされ、大江さんが代役を買って出て下さったということがあった。私はこの時、同行する予定だった。井上さんと最後にお話ししたのは、確か、その前年、岐阜での講演会と、加藤さんの志を受けつぐ会の場だった。井上さんは岐阜での講演会の後、懇親会にもつきあって下さり、お仕事の都合で、ちょっと早めに引き揚げた。
さまざまな場でおつきあい頂いたことは、私にとって光栄なことであった。
井上さんが九条の会で果たされた役割はまことに大きい。
いま、九条の会は、小田さん、加藤さん、井上さんを失った。しかし、呼びかけて頂いたその志は現実の力として生きている。あらためて、しっかりと受けついでいくことを誓う。井上さん、ありがとうございました。(高田)

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http://www.asahi.com/obituaries/update/0411/TKY201004110009_01.html

作家・劇作家の井上ひさしさん死去 「吉里吉里人」など
井上ひさしさん

 軽妙なユーモアをたたえた優れた日本語で「吉里吉里人」「國語元年」など多くの小説や戯曲、エッセーを書き、平和運動にも熱心に取り組んだ作家・劇作家で文化功労者の井上ひさし(本名・井上廈〈いのうえ・ひさし〉)さんが、9日午後10時22分、肺がんで死去した。75歳だった。

 山形県小松町(現川西町)生まれ。5歳で父と死別し、経済的な事情から一時、児童養護施設で育った。仙台一高から上智大フランス語学科に進み、在学中から浅草・フランス座で喜劇台本を執筆。卒業後、放送作家となり、1964年にNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本を山元護久氏と共作し、鋭い風刺と笑いのセンスで注目された。

 69年には劇団テアトル・エコーに「日本人のへそ」を書き下ろして本格的に劇作家デビュー。72年、江戸の戯作者(げさくしゃ)を描いた小説「手鎖心中」で直木賞、戯曲「道元の冒険」で岸田国士戯曲賞を受賞した。

 東北の一寒村が独立してユートピアをめざす小説「吉里吉里人」(81年)をはじめ、「不忠臣蔵」(85年)、「東京セブンローズ」(99年)、戯曲「天保十二年のシェイクスピア」(74年)、「化粧」(82年)など、壮大な想像力と平明で柔らかな日本語を駆使し、大衆的な笑いと深い人間洞察を両立させた秀作を多数執筆。エッセーや日本語論でも活躍した。

 83年には自作戯曲を上演する「こまつ座」を旗揚げ。「頭痛肩こり樋口一葉」(84年)、太宰治を描いた「人間合格」(89年)、林芙美子が主人公の「太鼓たたいて笛ふいて」(02年)などの優れた評伝劇や喜劇を次々と上演。97年には新国立劇場の開場公演「紙屋町さくらホテル」を手がけた。同劇場には庶民の戦争責任を問う東京裁判3部作「夢の裂け目」(01年)、「夢の泪」(03年)、「夢の痂(かさぶた)」(06年)も書き下ろし、10年4月から3部作連続上演が始まった。09年に初演した「ムサシ」が10年にニューヨークとロンドンで上演される。

04年には「九条の会」の呼びかけ人の一人となるなど護憲・平和運動にも積極的で、日本の右傾化に警鐘を鳴らし続けた。原爆で生き残った娘と亡父の交流を描いた戯曲「父と暮(くら)せば」(94年)は映画化もされた。

 膨大な資料を渉猟後、ユニークな発想で創作するために筆が遅く、「遅筆堂」を自認。戯曲が完成せず公演の開幕が遅れることもたびたびあった。87年、故郷の川西町に蔵書を寄贈して「遅筆堂文庫」が設立された。

 日本ペンクラブ会長、日本劇作家協会長などを歴任。直木賞、岸田戯曲賞、大佛次郎賞などの選考委員を長年つとめた。99年の菊池寛賞、00年度の朝日賞など受賞多数。04年に文化功労者、09年には芸術院会員に選ばれた。

 09年10月から体調不良のため静養していた。

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