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2010年3月 9日 (火)

報告書、国民の視点に立たず=我部政明琉球大教授-密約

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010030900657
報告書、国民の視点に立たず=我部政明琉球大教授-密約

 有識者委員会の報告書は、国民が何を知りたいかという視点に立って答えていない。専門家同士が密約を「広義」とか「狭義」とかと定義して議論を戦わせており、普通の人には理解しにくい。政府が事実と違うことを国民に説明してきたという点で、今回取り上げた四つはすべて密約だと判断すべきだ。
 特に沖縄への核再持ち込みが密約でないというのは理解できない。報告書は佐藤家で見つかった合意議事録について、当時の佐藤栄作首相とニクソン大統領の共同声明の内容を大きく超えるものではないから密約とは言えないとしている。しかし、合意議事録は沖縄の核の貯蔵に触れており、共同声明以上のことをやろうとしていたのは明らかだ。
 核持ち込みは、もちろんあったと思う。例えばエンタープライズの佐世保入港時やミッドウェーの横須賀母港化後、核をその都度降ろしてきたということはないだろう。米政府は、核の存在を肯定も否定もしないが、だからといって持ち込んでないとは考えられない。疑わしいことがあれば明らかにして国民に説明すべきだ。
 政府はこれまで一貫して否定してきた核持ち込みに対する見解を「不明」とするようだが、苦し紛れの変更で正直ではない。密約に手を付けた政権与党として落としどころと考えているのか。だが、いったん手を付けた以上、問題はここにとどまらない。
 民主党が密約問題で何をやりたかったのかよく分からない。米国が艦船に再度核を搭載すれば事前協議が問題となり、普天間飛行場移設以上の日米摩擦になりかねない。彼らの読みの浅さがパンドラの箱を空けてしまった。日米同盟の根本的な部分の転換期に入ってしまったのではないか。(2010/03/09- 16:18)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010030900640
「密約」問題報告書詳報

 「密約」に関する外務省の有識者委員会が9日提出した報告書の詳報は次の通り。(一部敬称略、肩書は当時)
 【密約とは何か】
 両国間の合意あるいは了解で、国民に知らされておらず、かつ、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つものは「狭義の密約」と言える。明確な文書でなく、暗黙のうちに存在する合意や了解だが、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つものは「広義の密約」と言える。
 【核搭載艦船の一時寄港】
 1960年に改定した日米安全保障条約に付属する「安保条約第6条の実施に関する交換公文」は、日本が米国に提供する基地の使用に関して次のように規定している。
 「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更ならびに日本国から行われる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設および区域の使用は、日本国政府との事前協議の主題とする」
 核兵器を搭載した米艦船の日本の港への寄港が日米両国による事前協議の対象になるかという問題は、この交換公文の解釈をめぐる問題だ。
 1、「討議記録」の解釈
 政府の説明は、安保改定時にできた日米間の了解事項を前提にしている。「装備における重要な変更」は「核弾頭および中・長距離ミサイルの持ち込みならびにそれらの基地の建設」を意味するという了解である。政府が核搭載艦船の寄港は事前協議の対象になると説明するのは、それがこの了解でいう核弾頭の「持ち込み」に当たるとみなすからである。
 安保改定時、この了解事項は他の了解事項とともに、「討議記録」という名前で文書化されている。60年1月6日、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日大使との間でイニシャル署名されたこの文書は、今回の調査では、コピーと考えられる文書が見つかった。
 この文書の2項Aの記述により、「持ち込み」は「装備の重要な変更」に当たり、事前協議の対象になることが確認できる。
 だが、核搭載艦船が日本の港に入るが、一定期間停泊後にそのまま出港するような場合も「持ち込み」になるのか。米国政府は63年4月、ライシャワー駐日大使を通じて大平正芳外相に、「持ち込み」には当たらないという米側の解釈を伝えてきた。だが安保改定交渉の際、日米間に「持ち込み」の意味についての合意があったわけではない。
 ライシャワー大使はこの日、2項Cの記述も持ち出した。
 「事前協議は合衆国軍隊とその装備の日本国への配置、合衆国軍用機の飛来、ならびに合衆国海軍艦船の日本国の領海への進入や港湾への入港に関する現行手続きに影響を与えるとは解されない。ただし、合衆国軍隊の配置における重要な変更の場合を除く」
 これこそ核搭載艦船の寄港を事前協議の対象外とする日米間の「密約」を示す記述ではないかと疑われてきた。
 だが、この記述を「密約」の証拠と見るのは難しいように思われる。まず、2項Cは、第2次台湾海峡危機を背景にして、米側が、米軍艦船や航空機の日本への通常の出入りが事前協議制度の制限を受けないことを確認するための了解であった。核兵器の「持ち込み」に関する了解であるという認識は日本側交渉者にはなかった。
 たしかに米政府は、2項Cの記述によって、核搭載艦船寄港を事前協議の対象外として処理できるとみなしたようである。ただ、交渉当時、その解釈を日本側に明らかにした形跡はない。
 2、「暗黙の合意」の萌芽(ほうが)
 マッカーサー大使は交渉開始前、核搭載艦船の寄港を事前協議の対象から外すよう日本側に真正面から求めれば、日本側は拒否せざるを得ないだろうと判断していた。60年代半ばに作成された米政府内の研究報告は、この問題では日米間に明確な了解ができなかったと結論している。
 日本側の態度が消極的なものであれば、詰めた話をせず、問題をあいまいなままにしておいてもよい、マッカーサーはそう考えたのではないか。事前協議の内容を詰める責任は日本側にあって、日本側がそれをしないのであれば、米側は米側の解釈で交換公文を理解してよいはずだ、マッカーサーはそう判断したのではないか。
 日本側の交渉者たちは米側の考え方に気付きつつ、漠然と希望は伝えたかもしれないが、核搭載艦船の寄港も事前協議の対象にしてほしいと正式に要求することはなく、米側もこの問題を正面から持ち出さなかった。それゆえ日米間で議論が詰められなかった。そういう構図が浮かび上がってくる。
 米側にしてみれば、問題を議論していなければ、現状通りでよいという解釈ができよう。日本側にしてみれば、核搭載艦船の寄港問題は将来の課題にして、今回はここまで、というようなことだったのではないか。
 結局、安保改定時には、あいまいにされたようである。だが、米側は日本側が事前協議なしの寄港を表立って認めることができないのを知っていたし、日本側は米国がこの問題で実際に事前協議するとは考えていなかったと思われる。双方はお互いの意向を知りながら、問題をそれ以上追及しなかったのである。そういう暗黙の合意が安保改定時にできあがりつつあったと見てよいだろう。
 3、「大平・ライシャワー会談」以後
 その「暗黙の合意」が日米間で固まるのは、「大平・ライシャワー会談」(63年4月3日)以降である。
 ライシャワー大使は、大平外相との間で「米国の現在の解釈に完全に沿うことで十分な相互理解に達した」と報告しているが、特にこの問題を議論するつもりも準備もない大平が周到な準備をしたライシャワーの一方的な説明を聞いて理解したから、日米合意ができたと言えるだろうか。
 重要なことは、日本政府が米側の解釈について明確に知らされ、実際に核搭載艦船の事前協議なしの寄港が行われている可能性が高いことを知ったこと、そして、米側の解釈に異議を唱えなかったことである。
 ライシャワーは、佐藤栄作首相にもひそかに米国の立場を伝えたようである(64年12月29日)。佐藤は大平同様、米側の解釈に異議を唱えなかったらしい。
 米国政府の解釈に異議を唱えなかったから、直ちに日本政府が同意したということにはならないだろう。だが、米側は、日本政府が米国は米国の解釈で行動することを許すものと受け取ったと思われる。ライシャワー以後は核搭載艦船の事前協議なしの寄港を続けたと推定される。
 だが日本政府は、米政府の考えをはっきり知らされた後も、核搭載艦船の寄港は事前協議の対象になる、と国会などで説明し続けた。さらに、具体的に米艦船の寄港が問題になると、米国がそういう日本の立場を知りながら事前協議をしてこないので、その艦船には核兵器を搭載していないはず、という趣旨の説明も行った。
 厳密にはうそとは言えないかもしれないが、まったく不正直な説明であるのは間違いない。
 政府は、不正直な説明を続けるために、明白なうそもついた。日米間には安保改定時に「藤山・マッカーサー口頭了解」があり、交換公文の意味が明確になる、ということにしたからである。
 何より問題は、歴代政府答弁が安保条約の事前協議に関して日米間には「交換公文」と「藤山・マッカーサー口頭了解」しかない、と事実(「討議記録」が存在する)に反する明白なうそをつき続けたことである。
 しかし、米政府は表だって異議を唱えなかった。日本政府が核搭載艦船の事前協議なしの寄港を現実問題として容認している以上、黙認せざるを得ないと考えたのであろう。
 今回の調査で明らかになった内部文書「装備の重要な変更に関する事前協議の件」(68年1月27日付)は東郷文彦北米局長が書き、双方の立場に異論を唱えず黙視する処理は政治的・軍事的に動かせないと主張。この文書は政府内で説明資料として使われた。首相、外相、外務省幹部が対象で、文書の欄外に、佐藤政権から宇野政権までの首相や外相らに説明したとの記述がある(海部政権にも口頭で説明)。日本政府のこの問題への対応は以後、「暗黙の合意」の維持で固まったのである。
 4、「暴露」への対応
 74年9月11日のラロック(退役米海軍少将)証言の後、外務省内では核搭載艦船の寄港(および領海通過)を事前協議の対象から外すことを公に認める可能性について検討がなされた。
 大平蔵相が積極的で、田中角栄首相と諮りつつ、フォード米大統領来日後、臨時国会までに決着を付ける方針を立てた。フォード大統領来日の際の首脳会談では田中首相が、核疑惑に答える課題の難しさについて語り、大統領の理解と解決への協力を求めた。外務省内でいくつかの対策案が検討されたが、結局、日の目を見ることがなかった。
 81年5月、再び「暗黙の合意」を揺さぶったのはライシャワーの発言である。しかし政府は、「暗黙の合意」の再検討には乗り出さなかった。
 91年、ブッシュ政権は米海軍の艦船、航空機から戦術核を撤去する決定を行った。これにより核搭載艦船の寄港問題は現実の日米関係を悩ます問題ではなくなった。90年代には米公文書公開によって「討議記録」の存在が指摘されるようになり、2000年までにはその概要が広く知られることになった。
 政府は冷戦終えんから10年という国際情勢の変化を踏まえ、米政府とも相談の上で、思い切って国民に経緯を説明し、核政策全般について再検討するべきはするという政治決断を行っても、あるいはその準備を始めてもよかったのではないか。
 5、結論
 日米両政府には「暗黙の合意」という広義の密約があった。それは安保改定時に姿を現し、60年代に固まった。
 「密約」問題に関する日本政府の説明は、うそを含む不正直な説明に終始し、本来あってはならない態度である。
 【朝鮮半島有事と事前協議】
 日米両国は60年の安保改定の際、在日米軍が日本から行う「戦闘作戦行動」を事前協議の対象とすることで合意した。それと同時に、両国は非公開の「議事録」(朝鮮議事録)により、朝鮮半島有事の際、国連軍の指揮下で行動する在日米軍が在日米軍基地を使用して直ちに(場合によっては事前協議なしに)出撃できることで合意していたことが今回の調査で確認された。
 69年の沖縄返還交渉で日本側は、主権国家として自国領土からの「戦闘作戦行動は当然協議を受けなくてはならない」との認識を固め、非公開の朝鮮議事録を首相による一方的な対外表明によって置き換えることを目指して対外交渉を行った。佐藤首相はニクソン米大統領と沖縄返還で合意した同年11月21日、朝鮮半島有事の際に在日米軍が出撃することについて、事前協議において「前向きかつ速やかに態度を決定する方針」と表明した。朝鮮議事録の失効、置き換えに関して、両国は明確な合意には達しなかったが、現状では、事前協議なしの出撃という密約は事実上有効性を失っているとみられる。
 ▽「密約」の認識
 岸信介首相は国会答弁で「在日米軍が国連軍の一部として、日本の基地を使用して作戦行動をするという場合においては、すべて事前協議の対象となる」と言明している。朝鮮議事録は明らかに、在日米軍基地からの戦闘作戦行動について朝鮮有事の場合は事前協議を免除することを秘密裏に認めた内容であり、密約の性格を帯びた文書であるとの認識を日本側交渉当事者および岸政権が持っていたのは確実である。
 【沖縄返還と有事の核再持ち込み】
 1、「有事における核の再持ち込み」という立場
 返還後の沖縄基地の機能に関する米政府の方針は、仮に返還時に核兵器を撤去する場合であっても、その条件として有事の核兵器再持ち込みが前提とされていたことがうかがわれる。
 正式交渉開始に先立ってニクソン政権は、核については、他の要素が満足できる合意に達し、かつ、緊急時の貯蔵と通過権の確保ができれば、最終段階で考慮するとの決定を行った。
 2、日本政府の立場
 施政権返還における日本政府の核兵器に関する立場は、非核三原則を踏まえて、核抜き返還を求めるものであった。
 外務省は、交渉では返還時の核撤去を求めるとともに、返還後の核持ち込みについては事前協議の対象とする立場を固めていた。
 同省は、交渉に当たって核兵器をめぐる秘密文書作成を極力避けるとともに、合意内容を、公表される共同声明に盛り込んで表に出そうとした。
 69年9月の愛知揆一外相訪米を前に、外務省では返還後の核の扱いに関する共同声明第7項に新たな文言を追加する修正案を工夫した。「日米安保条約の事前協議制度に関する米政府の立場を害することなく」の挿入が眼目であった。この対案の意味は、緊急事態の下では米側の事前協議に対し、日本政府が直ちに協議に応ずるであろうことを、非公開文書でなく共同声明で示そうとしたところにあった。
 (9月の)愛知外相とロジャース国務長官の会談以降、米側は核に関する共同声明案についての回答を遅らせる一方で、繊維問題について日本側の譲歩を迫る意向を重ねて示唆する戦術を採るようになる。
 核問題で米側からの回答がなく、11月(19日)の首脳会談での決着が予想される中、10月7日、佐藤首相は「米国が核(持ち込み)を日本に認めさせるあまり、逆に日本が自ら核武装をしようと言ったら米国も困るのではないか」「非核三原則の持ち込ませずは、誤りであったと反省している。この辺で(日本が)不完全武装だからどうすべきか、ということをもっと明らかにすべきであろうかとも考えている」と発言していた。返還交渉における核問題で米側からの回答が得られない事態の下、佐藤首相の判断が揺らいだことがうかがわれる。
 首脳間の最終決定を待つほかない事態となったことを受けて、外務省が取り組んだのは、共同声明とは別の文書を用意することだった。それが「会談録案」である。両国政府代表の発言記録とされ、日本側が核再持ち込みを認める可能性を示唆する内容だった。この「会談録案」は、11月の首脳会談直前に採用しないとの方針が決まる。
 外務省の「会談録案」起草と並行して、核の問題をめぐって関与したのは首相官邸だった。小杉照夫首相秘書官が関与したと思われる11月7日付文書は、共同声明第7項について三つの案にまとめたものであった。
 3、若泉-キッシンジャー・ルートと「合意議事録」
 若泉敬京都産業大教授は佐藤首相の信任状を得て、7月にキッシンジャー米大統領補佐官と会見し、極秘の連絡ルートを設定していた。若泉は佐藤首相の承認を得て、9月26~30日、ホワイトハウスでキッシンジャーと会見した。キッシンジャーは若泉に2枚の紙を渡したが、1枚は繊維問題、もう1枚が核に関する内容であった。
 キッシンジャーは、緊急時の核再持ち込み、通過などの条件を示し、佐藤首相の大統領あての書簡、あるいは両首脳による合意議事録とすることを提案した。
 11月6日に佐藤首相と会見した若泉は、極秘に保管する(緊急時の核再持ち込みを認める)「合意議事録」に両首脳がイニシャルすることを提案、佐藤首相は了承して、第1案から第3案までの手書きの共同声明案を示し、交渉を指示した。
 「官邸案」は、若泉-キッシンジャー・ルートを通してニクソン大統領に伝えられることとなった。
 11月10日から12日までキッシンジャーと会談した若泉は帰国後の15日に佐藤首相に会い、共同声明が官邸案の第2案になること、さらに「手続きに関する取り決め」、「合意議事録」、繊維に関する「覚書」を伝えている。佐藤首相は(訪米)出発(17日)直前に、官邸第2案をニクソンが受け入れるとの感触を得るとともに、首脳会談の際に、首脳2人が小部屋に入り「合意議事録」に署名する手はずについても了承していた。
 4、佐藤・ニクソン会談と共同声明をめぐる合意(略)
 5、考察
 「合意議事録」が佐藤内閣の後継内閣をも拘束する効力を持ったのかについては、おそらく否定的に考えざるを得ないだろう。佐藤首相自身が、交渉開始前から「秘密了解」というものについて慎重であった。佐藤首相は「合意議事録」を自分限りのものと考え、長期的に政府を拘束するものとは考えなかったのではないか。「合意議事録」の保管方法から見て、佐藤首相はこの文書を私蔵したまま、その後引き継いだ節は見られない。
 この秘密文書は、共同声明の内容を大きく超える負担を約束したものとは言えず、必ずしも密約とは言えないであろう。
 この秘密文書がなくても、かねて準備していた「会談録」またはこれを基礎とした提案をして、結局合意は実現されたのではないか。
 他方で、若泉・キッシンジャー・ルートが果たした役割を否定することはバランスを失することになろう。このルートを通して、ニクソン大統領の意向が佐藤首相に届いた意義は大きい。
 【沖縄返還と原状回復補償費の肩代わり】
 沖縄返還協定第4条1項は、日本と日本国民の米国に対する請求権を放棄している。しかし、同協定4条3項には、沖縄返還時に、米国が軍用地として使用していた土地で、50年7月1日前に損害(形質変更)を受け、かつ61年6月30日後から協定の発効前にその使用が解除された土地について、原状回復のための「自発的支払い」を行う、との規定が置かれている。
 返還交渉の過程で、当初米側は、既に必要な原状回復補償は終了しており、これ以上の財政支出を求めないことを議会に約束していたことから、支払いに応じようとしなかった。しかし、日本側の粘り強い交渉の結果、米側は「自発的支払い」に応ずることになった。問題はその財源であった。米側は、原状回復のための新たな財政支出について議会を説得することは困難との立場を崩さなかったため、「自発的支払い」に必要な額を日本政府が支出することになった、とされる。つまり、原状回復費用を日本側が「肩代わり」することになり、そのことを確認するため、協定調印の直前(71年6月12日)、吉野文六アメリカ局長とスナイダー駐日公使とがイニシャルした非公表の「議論の要約」が作成され、これが沖縄返還交渉にかかわる、いわゆる「密約」の一つとされてきた。
 (6月9日に提示した)日本側の不公表書簡案は、「米国が(日本の支払総額)3億2000万ドルの中から(原状回復補償費)400万ドルを信託基金のために留保することを了知する」という趣旨であり、「日本が信託基金のために400万ドルを支払う」という踏み込んだ内容ではなかった。米側はこれに代わる記録を求めたが、内容的にはさほど日本側書簡案と差のない「議論の要約」となったものと思われる。日本側は、やがて公になることもあり得ることを前提に慎重に文案作成に臨み、米側も、こうした日本側の立場に配慮して慎重に作成にあたっていたことをうかがわせる。
 「議論の要約」の内容は、日本側が400万ドルを支払うことを約束したものではなく、米政府が3億2000万ドルの中から400万ドルを留保することを日本側が予期する、という趣旨である。両国政府を拘束するような内容ではなく、いずれかが相手側に何かを約束するものでもない。
 ▽考察
 不公表書簡案にせよ「議論の要約」にせよ、それ自体は「狭義の密約」に当たるわけではない。「議論の要約」は事務当局レベルのものであり、愛知外相や後継の福田赳夫外相などの政府首脳が認識していたか、といえば疑わしい。
 しかし、交渉プロセスにおいて、米側は自発的支払いを行うものの、その財源を日本側が負担する、という合意が成立していたこと、その財源の400万ドルを日本側支払い総額の3億ドルに追加することについて双方が了解していたことは確認できる。
 これらの合意や了解は非公表扱いとされ、明確に文書化されているわけでもなく、返還協定などにも明記されていないが、両国政府の財政処理を制約するものとなる。その点では、これらは「広義の密約」に該当すると言えるだろう。
 沖縄返還に伴う財政経済交渉は、米国の国際収支が悪化し、主要国の政策運営をめぐって黒字国と赤字国の責任分担をめぐる対立が激しさを増すという国際経済環境の下で行われた。大幅な黒字国の日本は、絶えず守勢に回り、早期返還実現のために、財政負担の中身を詰めるより、「高度の政治的判断」を優先したことは十分に理解できる。その過程では、公表できない合意や了解も必要となり、「議論の要約」もその一つかもしれない。
 【外交文書の管理と公開について】
 明治・大正期から昭和の太平洋戦争を経て、対日平和条約に至る外務省記録は、案件ごとに良く保存・整備され、日本外交の足跡をかなりの厚みをもって再現することが可能となっている。では、対日平和条約とともに再出発した外務省が、そうした営みを継承し、将来のために記録として残すということに十分に配慮してきたのであろうか。
 1、「密約」と文書管理について
 安保条約改定時の「討議記録」など4件に関する文書について、存在が確認されなかった文書もあることに注目せざるを得ない。
 1961年に制定の文書管理規定の「文書保存廃棄類別基準」は、第1類(永久保存)から第4類(1年保存)まで、該当する文書が具体的に示されている。今回の調査対象である「討議記録」「朝鮮議事録」「議論の要約」などは、存在していたとすれば、一義的には永久保存に分類されたと考えられる。
 「討議記録」などは、編さんの対象とされず、別に保管されている可能性を探ったが、その事実はなかった。また、条約書目録や移管目録にも記載はなかった。
 問題は、「討議記録」などが永久保存に分類されていたか否かである。要件を満たさないものとして、廃棄と判断された可能性もある。
 「討議記録」などのうち幾つかは、法的拘束力を有しないとみなされ、いったんは永久保存に分類されたものの、後日、有期限文書とされ、手続きに従って廃棄された可能性も捨てきれない。
 もう一つの指摘すべき点は、「討議記録」などに関連する対米交渉について、当然あるべき会議録・議事録や電報類の部分的欠落、不自然な欠落、あるいは交渉経緯を示す文書類が存在しないために、外務省内に残された記録のみでは十分に復元できなかったことである。
 今回の調査対象に限らず、重要な交渉について、戦前期の記録文書の多くが残され、戦後期の文書に欠落が目立つのはなぜか、という疑問が残る。記録を作成して保存する、という意識に欠け、組織としての取り組みに欠けていたことは否めない。
 当面は公表がはばかられる合意や議事内容であっても、国民に対する将来の説明のために、その経緯と結末に関する公的な記録を残しておくことの重要性を改めて指摘しておこう。
 歴史的に重要な文書の不用意な廃棄や不適切な処理が行われていたことは、いずれの行政官庁も多かれ少なかれ認めざるを得ないであろう。情報公開法が先に制定され、10年後に公文書管理法が制定されている。さらに同じ時期に省庁再編に直面したことから、行政官庁における公私文書の大量廃棄という事態を招いたことは容易に推測できる。
 2、提言
 「30年公開原則」に基づく外交記録公開制度は、時の経過とともに停滞気味となり、初期の意気込みも後退しているかに見える。外務省内の意識改革や人員・体制の強化を含めて、公開審査を抜本的に進展させるような具体策を早急に検討することを求めたい。
 審査を終え、「公開不要」や「公開対象外」となった文書について、その廃棄の是非の判断は多角的になされるべきであり、第三者の目が必要である。
 案件の選定過程や省内の審査過程において、少なくとも政務レベルの関与を確保することが必要と思われる。(2010/03/09-16:17)

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