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許すな!憲法改悪・市民連絡会

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2009年5月14日 (木)

右派の惨憺たる言論への同志社大教授・村田晃嗣の悲鳴

資金に任せて、質の悪さを気にしないで発行している右派の雑誌はいろいろあるが、この度、文弘や安倍晋三、田母神俊雄、石原慎太郎、桜井よしこ、西部遇、秦郁彦、渡部昇一、西尾幹二、八木秀次、長谷川三千子、西岡力、らが常連で登場するが、相互 のバトルも起きている。まさに村田が嘆くような状況だ。これらの「保守」が真の意味での現実主義と合流することなど、不可能なことだ。それでは危機アジリ 専門の「保守」の価値が亡くなってしまうからだ。(高田)芸春秋社の『諸君!』は休刊する。最終号は「日本への遺書」特集だ。
花田紀凱編集長の『WILL』は極度に低級で、産経の『正論』なども質が悪い。これらの雑誌には中曽根康弘や安倍晋三、田母神俊雄、石原慎太郎、桜井よしこ、西部遇、秦郁彦、渡部昇一、西尾幹二、八木秀次、長谷川三千子、西岡力、らが常連で登場するが、相互のバトルも起きている。これらは北朝鮮や中国を罵倒し、政府・与党内の弱腰を口を極めて非難する。そして「日本が危ない」とアジリまくる。それで原稿が一丁上がりなのである。
最近は田母神は「北朝鮮には核で対抗せよ!」という文章を書き、西尾は「日本の分水嶺~危機に立つ保守」という文章、安倍は「世界は日本の『覚悟』を待っている」などという酷い文章をかいている。
まさに村田が嘆くような状況だ。これらの「保守」が真の意味での現実主義と合流することなど、不可能なことだ。それでは危機アジリ専門の「保守」の価値が亡くなってしまうからだ。(高田)

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090514/plc0905140324002-n1.htm
【正論】同志社大学教授・村田晃嗣 保守は現実主義を取り入れよ
≪2人の政治学者の死に≫

 昨年末に国際政治学者の永井陽之助氏が亡くなり、今年2月には同じく神谷不二氏も亡くなった。お二人とも、いわゆる「現実主義」の論客として学界と論壇をリードしてこられた方である。ご冥福をお祈りしたい。

 「現実主義」とは何か。代表的論客だった高坂正堯氏の説に耳を傾けよう。それは「…社会・歴史・政治について、それに内在する不可知なものを承認し、簡単な図式でもって置き換えないこと、そして、目的と手段との間の相互関連性を認め、この両者の間の生き生きとした会話を重視することを説くものなのである」。

 インターネットを含む最近の言論界では、「保守」や「保守主義」が標榜(ひょうぼう)されることは多いが、「現実主義」の説かれることは少ないように思う。「保守」は伝統と結びつくこともあろうし、「タカ派」的イメージと重なる部分もある。しかし本来、「現実主義」や懐疑主義とも連動するはずである。これらと接点をもたない「保守」は、狭量で硬直したものになりがちである。

 例えば、「あの人は真の保守ではない」といった非難は、保守すべき目標以上に「保守」的な姿勢を自己目的にしてはいまいか。また、複雑な社会・歴史・政治を「保守」と「リベラル」という「簡単な図式」で判別することを、「現実主義」は避けようとしてきた。さらに、ある特定の立場を「真の保守」と断定するような姿勢には、不可知なものへの謙虚さや自らを懐疑する知恵が欠けている。

 ≪抵抗ポーズにも厳しさを≫

 おそらく、自ら「保守」を標榜する人々の一部は、依然として日本社会が「リベラル」に汚染されていると嘆じ、自称「リベラル」(しばしば狭量で不寛容であるが)は社会の「保守化」を憂えている。いずれもが「過慮」(中江兆民)であろう。「過慮」は言論を過激にし、不寛容を助長する。

 中国や北朝鮮ならいざ知らず、言論の自由の保証された日本社会では、「保守」にせよ「リベラル」にせよ、過激な言論を展開することに、実はそれほどの勇気はいらない。むしろ、中庸な意見のほうが、折衷主義や妥協的、現状追従といった非難を浴びやすいかもしれない。「政治権力への抵抗のポーズそれ自身が何かに対するひとつのサービスなのだ、という現代の逆説に厳しい自覚を欠いた言論は、いつかまた、世論や民衆のムードの変化に応じて、たちどころに総転換が始まるだろう」と、永井氏は指摘している。「何か」に激烈に抗議・抵抗するポーズが、実は別の「何か」への迎合や追従でありはしないか。

 去る4月5日の北朝鮮によるミサイル発射実験を受けて、日本の安全保障体制に多角的な見直しは必要である。しかし、ここから安直に核武装論を導き出すべきではない。念のために言うが、筆者は核武装を議論することを否定しているのではない。目的と手段との「生き生きとした会話」の必要性を喚起しているのである。

 北朝鮮の脅威に対応する上で、核武装が最も妥当な選択か、核武装に伴うリスクやコストは何か、さらには、どのような方法でどのような種類の核武装を行うのか-こうした論点を十分に検証しなければならない。核武装は「劇薬」であり、場合によっては日本国の存亡にかかわる。愛国心をもった人間なら、思いつきだけで議論はできないはずである

 ≪優先順位の感覚と寛容を≫

 核をもつ意思表示で抑止効果が生じると説く人もいる。しかし、意思だけで方法論を欠けば、議論に信憑(しんぴょう)性がなく、抑止効果は生じない。まして、日米ニュークリアシェアリング(核の共有)論なら、アメリカの意思も問題になる。在日米軍の大幅削減論や真珠湾コミンテルン陰謀説とセットでそれを論じても、効果は乏しかろう。逆に、意思表示だけで、日本に対するネガティブ・キャンペーンの材料にはなるかもしれない。

 多くの場合、過激な言論を説くことは容易だし、不安や不満の蔓延(まんえん)する現下の社会では、過激な言論に一時的に身を委ねることで、ある種の清涼感が得られるかもしれない。しかし、目的と手段との間に「生き生きとした会話」を欠く核武装論では、一時的な清涼感以上のものは期待できない。

 もとより、将来により精緻(せいち)な核武装論が展開されるかもしれない。だが、政治や戦略にとっては優先順位が重要である。安倍元首相が着手した集団的自衛権の行使に関する見直し作業は、未完のままである。その安倍氏も最近の訪米で、バイデン副大統領に包括的核実験禁止条約への調印を促している。つまり、核軍縮の潮流を重視しているのである。日本の国連安保理常任理事国入りも果たせていない。地球環境やエネルギー、海洋政策でも国際協力を進めていかなければならない。

 日本の外交課題が山積する中で、「保守」が「現実主義」と再び合流し、優先順位の感覚と寛容の精神を再発見することに、心から期待したい。(むらた こうじ)

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