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許すな!憲法改悪・市民連絡会

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2008年5月 9日 (金)

5月3日、新聞各紙社説紹介

この間、運動の多忙さの故に手抜きになっていたが、遅ればせながら5月3日の各紙社説を拾った。読売、日経、産経、朝日、毎日、東京、北海道、神奈川各紙である。
特徴は改憲派の読売、日経が9条改憲論を正面から展開できずに、衆参ねじれ国会状況に引っかけて二院制のあり方を論じて改憲へと誘導しようとしていること(産経は海賊事件に例を借りて、自衛隊派兵改憲を主張したが)、朝日や各地方紙が、この1年で憲法状況が大きく変化したことを指摘し、9条護憲の意見が国民の間で急増していることや、貧困と深刻な格差社会、名古屋高裁判決、立川反戦ビラ判決、プリンスホテル問題などに触れ、「憲法と現実の乖離」を指摘し、9条だけでなく、21条や25条の問題でも、憲法の理念を実現することを主張していることである。
この間、9条改憲論の根拠として強大な自衛隊保持などの現実と憲法の乖離が主張され、憲法を現実にあわせるための改憲が語られてきた。ではお聞きしたい、21条や、25条での現実との乖離も改憲派の諸君は憲法を現実にあわせろと主張するのだろうか。これらの深刻な乖離は名古屋高裁判決を受けての福田首相の発言や海上幕僚長の「関係ねえ」発言にみられるように、憲法無視、立憲主義の否定の態度と共通する問題である。各紙社説氏は、こうした指摘を5月3日の一時の憲法論に終わらせるのではなく、ジャーナリズムの使命としての恒常的な権力批判として展開しなければならない。この社会の現状にはマスマディアにもまた重大な責任があるからだ。
地方紙各紙の社説を集めたNPJの資料は迫力がある。
http://www.news-pj.net/siryou/shasetsu/2008.html#anchor-kenpou(高田)


http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080502-OYT1T00753.htm

憲法記念日 論議を休止してはならない(5月3日付・読売社説)

 この国はこれで大丈夫なのか――日本政治が混迷し機能不全に陥っている今こそ、活発な憲法論議を通じ、国家の骨組みを再点検したい。

 昨年5月、憲法改正手続きを定めた国民投票法が成立し、新しい憲法制定への基盤が整った。

 ところが、同法に基づいて衆参両院に設置された憲法審査会は、衆参ねじれ国会の下、民主党の消極的姿勢もあって、まったく動いていない。

 超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根元首相)が1日主催した大会に、顧問の鳩山民主党幹事長らが欠席したのも、対決型国会の余波だろう。

 大会では、憲法改正発議に向けて憲法問題を議論する憲法審査会を、一日も早く始動させるよう求める決議を採択した。これ以上、遅延させては、国会議員としての職務放棄に等しい。

 与野党は、審査会の運営方法などを定める規程の策定を急ぎ、審議を早期に開始すべきだ。

 憲法審査会で論じ合わねばならぬテーマは、山ほどある。二院制のあり方も、その一つだ。

 現行憲法は、衆参ねじれ国会を想定してはいた。例えば、憲法59条。衆院で可決した法案を参院で否決、または60日以内に議決しない場合、衆院は3分の2以上の賛成多数で法案を再可決し、成立させることができる。

 政府・与党は、これに基づき、インド洋での海上自衛隊の給油活動再開のための新テロ対策特別措置法と、ガソリン税の暫定税率を復活させるための税制関連法をそれぞれ再可決、成立させた。

 この再可決は、憲法の規定上、何の問題もない。

 かつて、参院議長の私的諮問機関は、参院改革の一環として、衆院の再可決要件を、「3分の2以上」から「過半数」に緩和することを提言した。自民党が新憲法草案を作成する過程でも、同様の案が一時、浮上した。

 もちろん、こうした改革には憲法改正が必要で、直ちに実現できることではない。

 ただ、参院の機能は、衆院に比べてあまりに強すぎないか。衆参両院の役割分担を見直す必要はないか。与野党には、こうした憲法改正にかかわる問題を大いに論議してもらいたい。

 衆参ねじれ国会は、国として迅速にしなければならぬ意思決定を困難にしている。こうした国会機能をめぐる議論を積み重ねることが、新しい国会ルールの形成にもつながるのではないか。
(2008年5月3日01時45分  読売新聞)

http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20080502AS1K3000302052008.html
日経新聞 社説 憲法改正で二院制を抜本的に見直そう(5/3)

 衆参両院の多数派が異なるねじれ国会で政局が迷走する中で、61回目の憲法記念日を迎えた。現行の二院制度は日本国憲法の最大の欠陥である。議院内閣制がきちんと機能するように憲法を改正し、よりよい二院制度をめざしたい。ねじれ国会の迷走を貴重な教訓として憲法改正論議に生かすべきである。

 私たちはかねて、参院が大きな権限を持つ現行制度の下では議院内閣制が立ち往生しかねないと指摘してきた。そうした懸念が現実となったのがねじれ国会の迷走である。

衆院の優越より明確に

 テロ防止のための国際協力に4カ月近くの空白が生じた。日銀総裁の決定も混迷に混迷を重ねた。予算を執行するための関連法案の成立も容易でない状況が続いている。

 現在は与党が衆院で3分の2以上の多数を握っており、参院で法案が否決されるか、2カ月以内に議決しない場合に衆院で再可決できるので国政の混乱もまだこの程度で収まっている。しかし、与党が衆院で3分の2以上の勢力を持つのは極めてまれである。与党が衆院で単なる過半数しか持っていない場合、政治はたちまち行き詰まってしまう。

 議院内閣制は衆院多数派が内閣を組織し、国会と国民に責任を負う仕組みだ。参院はこれに対する「チェック機関」「再考の府」であり、参院が強大な権限を持つと議院内閣制の趣旨は貫徹できなくなる。現行憲法は首相指名、予算、条約承認で衆院の優越を明確に認めているが、普通の法案については衆院の3分の2の再可決規定があるだけである。

 衆院の優越規定がそれだけでは明らかに不十分である。予算が成立しても歳入などの裏付けとなる関連法案が成立しなければ予算執行に支障が出る。条約が承認されても関連の国内法が成立しなければ実際の効力が発生しないケースも出てくる。国会同意人事も最終的には内閣の責任になるのだから衆院の優越を認めないのは不自然である。

 英国の上院は貴族院であり、ドイツの連邦参議院は州政府の代表で構成されている。いずれも国民の直接選挙ではなく、その分、権限は制約されている。一方、イタリアの上院は国民の直接選挙で下院と完全に同等の権限を持っており、解散の場合は常に上下両院同時である。解散がないのに大きな権限を持つ日本の参院は世界的に見ても異様である。

 私たちは衆院の優越をより明確にするため憲法59条を改正し、衆院の再可決の要件を3分の2から過半数に緩和すべきだと主張してきた。参院に従来通り2カ月の審議期間を保証すれば、チェック機関、再考の府としての機能は十分に果たせるはずである。道路特定財源問題では参院が2カ月間審議を引き延ばした結果、内閣は再可決の条件整備のために一般財源化方針に踏み切らざるを得なくなったのが一例である。

 現行の二院制度を前提とする限り、ねじれを解消する手段は最終的に衆院第一党と参院第一党の大連立しかないだろう。衆院選の民意を踏まえた結果なら大連立もやむを得ないと考えるが、大連立が常態化するのは好ましくない。議院内閣制はやはり二大政党による政権交代可能な政治体制が基本である。

 憲法を改正して参院の権限を縮小し、衆院の優越をより明確にするのに合わせて、参院の選挙制度も抜本的に見直すべきである。現行の3年ごとの半数改選は米国上院をまねたものでほとんど無意味だ。6年の任期も長すぎる。全国単位の比例代表制は廃止した方がいい。

参院は地方代表で構成

 衆院議員が全国民の代表とするなら、参院議員はドイツのように地方の代表として位置づける。将来の道州制導入をにらんでブロックごとの比例代表選挙か、あるいは直接選挙をやめて間接選挙とし、総定数は100人程度とする。このような案も一考に値しよう。

 自民党は2005年に新憲法草案を公表したが、参院の改革には全く触れていない。民主党も憲法に関する基本的な考え方をまとめているが、参院のあり方への言及がない。両党ともこれまで参院をタブー視して党内議論を封じ込めてきた。ねじれ国会の迷走はそうした両党の姿勢に反省を迫っているともいえよう。民主党も将来政権を担うときに参院が足かせになる可能性があることをもっと真剣に考えた方がいい。

 昨年5月に成立した国民投票法で衆参両院に憲法審査会を設置することが決まった。だが、同審査会の組織や運営ルールを定める審査会規程の協議を民主党が拒否し続け、いまだに憲法審査会が活動できずにいる。議論すべきテーマは二院制度見直しだけにとどまらない。自衛隊の国際貢献などの安全保障、抜本的な地方分権、環境や生命倫理などいくらでもある。一刻も早く憲法審査会を始動させるべきである。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080503/plc0805030149000-n1.htm
憲法施行61年を迎えた。施行された昭和22年当時には想定できなかった事態が続発している。

 サブプライム問題に伴う金融危機、資源争奪に加え、中国の軍事力強大化や北朝鮮の核の脅威にさらされている。この国際環境の激変とパワーゲームを前に日本は日銀総裁を空席にしたように国家意思を決められなくなっている。

 より深刻なのは、日本が国家として当たり前のことを実行できなくなっていることだ。4月21日、中東イエメン沖で日本郵船の大型タンカー「高山」が海賊に襲われ、被弾した事件は、日本が公海上で海賊を撃退することに無力なことをみせつけた。憲法解釈によりがんじがらめだからである。

 これでは日本は国際社会の平和と安定に寄与することはむろん、国の安全を保っていくことも難しい。憲法守って国滅ぶである。

 高山が被弾した海域の周辺では海上自衛隊の補給艦と護衛艦が多国籍海軍へ給油支援を行っている。普通の国の海軍なら、自国船舶が海賊に襲撃されたら、自衛権によって不法な暴力を撃退するが、海自はそうした行動を取れない。

 それは、新テロ特別措置法が給油支援に限定しているだけでなく、不法な暴力を抑止する国内法規定がないうえ、普通の軍隊に付与される「平時の自衛権」が認められていないためだ。

 日本は自衛権の発動に急迫不正の侵害などの厳格な要件を課している。このため海賊の攻撃に自衛権は適用されず、撃退は憲法解釈で禁止されている「武力行使との一体化」行為とみなされる。

 ≪自衛権がなぜ使えない≫

 国連安保理は現在、海賊を領海内まで追跡、逮捕できる権限を付与する決議を準備しているが、日本はパトロールすら実施できないと弁明するのだろうか。

 問題海域は日本の海上交通路(シーレーン)と重なる。日本の国益にかなう国際共同行動に日本がもし憲法を理由に参加しないなら、国際社会はどう受け止めるだろうか。国際社会との連携こそ、貿易立国・日本の基軸であり、その実現に総力を挙げるべきだ。

 この国際社会の行動を国会はどの程度直視しているのだろう。政争に明け暮れているのが実態ではないか。憲法問題の調査、研究を行うために昨年8月、衆参両院に設置された憲法審査会がいまだに、定員や審議方法などを定める規程を決められないまま、開店休業なのは、その一例である。

 この怠慢に民主党の責任は大きい。同党は国民投票法採決を与党が強引に進めたと批判、昨秋の執行部人事でも憲法調査会長を置くことなく、憲法問題に背を向けている。憲法審査会での憲法改正原案の起草・審査は現在凍結されているが、平成22年5月に解除される。それまでに国民の平和と安全をきちんと守れる国のありようを与野党で論じ合うのが、立法府の最低限の責務だろう。

 ≪タブーなく参院見直せ≫

 衆参両院の意思が異なる「ねじれ」が日本を停滞させてもいる。この問題では国民の利益や国益を守るため、与野党の歩み寄りが必要不可欠だが、参院のあり方もタブーなく見直すべきである。

 自民党が平成17年10月にまとめた新憲法草案や参院憲法調査会の報告書でも、参院は現状維持にとどまっている。参院見直しに参院側が反発したためである。

 フランス革命の理論的指導者だったシェイエスは「第二院は何の役に立つのか。第一院と一致するなら無用、異なれば有害」と語ったが、日本における二院制のあるべき姿を憲法改正を含めて明確にしなくてはなるまい。

 これまでの日本は憲法解釈に基づき、できることとできないことを仕分けしてきた。できることは超安全な地域での給油支援などだった。武力行使との一体化を避けるためだが、憲法第9条の「国際紛争を解決する手段としての武力行使」は2国間の戦い、いわば侵略戦争のための武力行使を意味している。国際的な警察行動や制裁はそこに含まれないと考える有力説もある。

 海賊も撃退できない憲法解釈がいかにおかしなものか。自民党の新憲法草案で自衛軍保持と集団的自衛権の行使容認をまとめた福田康夫首相は熟知していよう。小沢一郎民主党代表も「普通の国」が持論だったはずだ。国民の常識が通用する憲法体制の構築に与野党は競い合ってほしい。

http://www.asahi.com/paper/editorial20080503.html
朝日新聞社説 日本国憲法―現実を変える手段として

 たった1年での、この変わりようはどうだろう。61回目の誕生日を迎えた日本国憲法をめぐる景色である。

 昨年の憲法記念日のころを思い出してみる。安倍首相は、夏の参院選に向けて憲法改正を争点に掲げ、そのための手続き法である国民投票法を成立させた。集団的自衛権の政府解釈を見直す方向で、諮問機関も発足させた。

 ところがいま、そうした前のめりとでも言うべき改憲気分は、すっかり鳴りを潜めている。福田首相は安倍時代の改憲路線とは一線を画し、集団的自衛権の見直しも棚上げにした。

 世論も冷えている。改憲の旗振り役をつとめてきた読売新聞の調査では今年、93年以降の構図が逆転し、改憲反対が賛成を上回った。朝日新聞の調査でも、9条については改正賛成が23%に対して、反対は3倍近い66%だ。

 90年代から政治やメディアが主導する形で改憲論が盛り上がった。だが、そもそも政治が取り組むべき課題を世論調査で聞くと、景気や年金など暮らしに直結する問題が上位に並び、改憲の優先順位は高くはなかった。イラクでの米国の失敗なども背景に、政治の熱が冷めれば、自然と関心も下がるということなのだろう。

 むろん、政界再編などを通じて、9条改憲が再浮上する可能性は否定できない。ただ、今の世の中の流れをみる限りでは、一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張が訴求力を失うのはあたり前なのかもしれない。

■豊かさの中の新貧困

 9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、実は憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった。

 すさまじい勢いで進む経済のグローバル化や、インターネット、携帯電話の広がりは、日本の社会を大きく変容させた。従来の憲法論議が想像もしなかった新しい現実が、挑戦状を突きつけているのだ。

 たとえば「ワーキングプア(働く貧困層)」という言葉に象徴される、新しい貧困の問題。

 国境を超えた競争の激化で、企業は人件費の削減に走る。パートや派遣の非正規労働者が飛躍的に増え、いまや働く人の3分の1を占める。仕事があったりなかったりの不安定さと低賃金で、生活保護の対象になるような水準の収入しかない人たちが出てきた。

 本人に問題があるケースもあろう。だが、人と人とのつながりが希薄になった現代社会では、個人は砂粒のようにバラバラになり、ふとしたはずみで貧困にすべり落ちると、はい上がるすべがない。

 戦後の日本人は、豊かな社会をめざして懸命に働いてきた。ようやくその目標を達したかに思えたところで、実は袋の底に新しい穴が開いていた。そんな状況ではあるまいか。

 東京でこの春、「反貧困フェスタ」という催しがあり、そこで貧困の実態を伝えるミュージカルが上演された。

 狭苦しいインターネットカフェの場面から物語は始まる。カフェを寝場所にする若者たちが、かたかたとキーボードをたたきながらネットを通じて不安や体験を語り合う。

 長時間労働で倒れた人、勤め先の倒産で給料未払いのまま職がなくなってしまった若者、日雇い派遣の暮らしから抜け出せない青年……。

 最後に出演者たちが朗唱する。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。生存権をうたった憲法25条の条文だ。

 憲法と現実との間にできてしまった深い溝を、彼らは体で感じているように見えた。

■「自由」は実現したか

 民主主義の社会では、だれもが自分の思うことを言えなければならない。憲法はその自由を保障している。軍国主義の過去を持つ国として、ここはゆるがせにできないと、だれもが思っていることだろう。だが、この袋にも実は穴が開いているのではないか。そう感じさせる事件が続く。

 名門ホテルが右翼団体からの妨害を恐れ、教職員組合への会場貸し出しをキャンセルした。それを違法とする裁判所の命令にも従わない。

 中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」は、政府が関与する団体が助成金を出したのを疑問視する国会議員の動きなどもあって、上映を取りやめる映画館が相次いだ。

 インターネット社会が持つ匿名性は「両刃の剣」だ。多数の人々に個人が自由に発信できる世界を広げる一方で、無責任な書き込みによる中傷やいじめ、プライバシーの暴露が、逆に個人の自由と人権を抑圧する。

 こうした新しい現実の中で、私たちは自由と権利を守る知恵や手段をまだ見いだしていない。

 憲法で「全体の奉仕者」と位置づけられている公務員が、その通りに仕事をしているか。社会保険庁や防衛省で起きたことは何なのか。憲法の精神への裏切りではないのか。

 憲法は国民の権利を定めた基本法だ。その重みをいま一度かみしめたい。人々の暮らしをどう守るのか。みなが縮こまらない社会にするにはどうしたらいいか。現実と憲法の溝の深さにたじろいではいけない。

 憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ。その視点があってこそ、本物の憲法論議が生まれる。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/archive/news/20080503ddm005070099000c.html
毎日新聞 社説:憲法記念日 「ことなかれ」に決別を 生存権の侵害が進んでいる

 あれほど盛んだった改憲論議が、今年はすっかりカゲをひそめてしまった。国民の関心は憲法よりも、暮らしに向かっている。

 戦後最長の大型景気も天井を打って下り坂に転じた気配が濃厚である。ガソリンだけでなく、食品も値上げラッシュだ。

 ところが、所得は一向に伸びない。老後を支える年金や医療保険改革は前進しない。暮らしの悪化の実感の前に、憲法問題は背後に追いやられてしまった。

 しかしながら、実は今年ほど、憲法が切実な年もないのではないか。

 右翼のいやがらせへの懸念を理由に、裁判所の決定を無視してかたくなに日教組の集会を拒んだ東京のホテル。国会議員の介入を機に映画館の上映中止が相次いだ映画「靖国」。

 憲法の保障する集会の自由、表現の自由が脅かされている。「面倒は避けたい」と思うのは人情だ。しかし、このとめどもない「ことなかれ」の連鎖はいったいどうしたことか。意識して抵抗しないと基本的人権は守れない。私たちの現状は、やや無自覚に過ぎるように見える。

◇感度が鈍っている

 NHKが5年ごとに「憲法上の権利だと思うもの」を調査している。驚いたことに「思っていることを世間に発表する」こと(表現の自由)を権利と認識するひとの割合が調査ごとに下がっている。73年は49%だったのが、03年は36%まで落ち込んだ。表現の自由に対する感度が鈍っているのが心配だ。

 その意味で注目されるのが、イラクでの航空自衛隊の活動に対する名古屋高裁の違憲判決だ。

 高裁は「バグダッドは戦闘地域」と認定し、空輸の法的根拠を否定した。対米協力を優先させ、憲法の制約をかいくぐり、曲芸のような論理で海外派遣を強行するやり方は限界に達している。そのことを明快に示す判決だった。

 しかし、この判決の意義はそれにとどまらない。憲法の前文は「平和のうちに生存する権利」をうたっているが、それは単なる理念の表明ではない。侵害された場合は裁判所に救済を求める根拠になる法的な権利である。そのような憲法判断を司法として初めて示したのである。

 ダイナミックにとらえ直された「生存権」。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか。

 4月から始まった「後期高齢者医療制度」は高齢の年金生活者に不評の極みである。無神経な「後期高齢者」という名称。保険料を年金から一方的に天引きされ、従来の保険料より高い人も多い。「平和のうちに生存する権利」の侵害と感じる人が少なくあるまい。

 「憲法」と「現実」の懸隔が広がっている。働いても生活保護以下の所得しか得られないワーキングプアの問題など典型だ。年金を払い込みながら記録されていない「消えた年金」もそうであろう。「生存権」の侵害に監視を強める地道な努力が必要である。

 その努力の中心になるべきは、言うまでもなく国会だが、野党はもとより、与党もひたすら「生活重視」を唱えている。むしろ「内向き」過ぎると心配したくなる。ところが「生活重視」で一致するのに、スムーズに動かない。いわゆる「ねじれ国会」の弊害である。

 しかし、「ねじれ国会」の非効率性だけを言うのは一方的だ。「ねじれ」になる前の自民党はどうだったのか。強行採決を連発する多数の横暴そのものだったと言えるだろう。

 「ねじれ」以降、自民党は話し合い路線の模索に転じ、福田康夫首相は道路特定財源の一般財源化を約束するに至った。「ねじれ」なしでは起こりえなかったことである。カラオケ機を買うなど、年金や道路財源のデタラメな運営も「ねじれ国会」の圧力があって明らかになったことだ。
 ◇ルールの整備急げ

 私たちは「ねじれ国会」は、選挙で打開を図るのが基本だと主張している。選挙のマニフェストを発表する際、喫緊の重要課題について選挙結果に従うことを約束しておくのも一案だろう。こうしたルールの整備によって「ねじれ」を消化していくことが、民主政治を成熟させることにほかなるまい。

 憲法が両院不一致の場合の打開策としている両院協議会は、いま、ほとんど機能していない。両院それぞれ議決した側から10人ずつ委員を選ぶ仕組みだから、打開案がまとまりにくい。委員選出の弾力化など、その活性化に早急に取り組んでもらいたい。

 ただ「ねじれ」の有無にかかわらず、参院は「ミニ衆院」という批判を払拭(ふっしょく)する必要がある。明治から約120年の歴史を有する衆院と違い、参院は戦後改革で生まれた。憲法の精神の体現といってよい。参院はその自覚に立って独自性の確立を急ぐべきである。

 憲法で保障された国民の権利は、沈黙では守れない。暮らしの劣化は生存権の侵害が進んでいるということだ。憲法記念日に当たって、読者とともに政治に行動を迫っていく決意を新たにしたい。

毎日新聞 2008年5月3日 東京朝刊

東京新聞 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008050302008501.html
憲法記念日に考える 『なぜ?』を大切に

2008年5月3日

 日本国憲法の規範としての力が弱まっています。現実を前に思考停止に陥ることなく、六十年前、廃虚の中で先人が掲げた高い志を再確認しましょう。

 昨年七月、北九州市で独り暮らしの男性が孤独死しているのが発見されました。部屋にあった日記に生活の苦しさがつづられ、最後のページには「おにぎりが食べたい」と書いてありました。

 男性はタクシー運転手をしていましたが肝臓の病気で働けなくなり、四月まで生活保護を受けていました。病気が少しよくなり、福祉事務所の強い指導で保護を辞退したものの働けず、にぎり飯を買うカネさえなかったようです。
 忘れられた公平、平等

 全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶ちません。憲法第二五条には「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのにどうしたことでしょう。

 国が抱える膨大な借金、将来の社会を支える若者の減少など、日本は難局に直面しています。しかし、最大の要因は弱者に対する視線の変化でしょう。

 行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させました。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、第二五条は規範としての意味が薄れました。

 リストラでよみがえった会社の陰には職を失った労働者がたくさんいます。「現代の奴隷労働」とさえ言われる悪条件で働くことを余儀なくされた非正規雇用の労働者が、企業に大きな利益をもたらしています。

 年収二百万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は一千万人を超えると言われます。
 黙殺された違憲判決

 安い賃金、不安定な雇用で住居費が払えず、インターネットカフェや漫画喫茶に寝泊まりしている人が、昨年夏の厚生労働省調査で五千四百人もいました。これは推計で実際はもっと多そうです。

 憲法には第二五条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(第二七条)という規定もあります。

 「なのになぜ?」-ここにもそう問いたい現実があります。

 「戦力は持たない」(第九条第二項)はずの国で、ミサイルを装備した巨船に漁船が衝突されて沈没しました。乗組員二人はいまだに行方が分かりません。「戦争はしない」(同条第一項)はずだった国の航空機がイラクに行き、武装した多国籍兵などを空輸しています。

 市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月十七日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言しました。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示しました。

 しかし、政府は判決を黙殺する構えで、自衛隊幹部の一人は人気お笑い芸人のセリフをまね「そんなのかんけえねえ」と言ってのけました。「判決は自衛隊の活動に影響を及ぼさない」と言いたかったのでしょうが、「憲法なんて関係ねえ」と聞こえました。

 イラク派遣反対のビラを自衛隊官舎に配った東京都立川市の市民は住居侵入容疑で逮捕され、七十五日間も拘置されたすえに有罪とされました。団地の新聞受けにビラを静かに入れて回っただけなのに「他人の住居を侵し、私生活の平穏を害した」というのです。

 ビラ配布は、組織、資力がなくても自分の見解を広く伝えることができる簡便な手段です。読みたくなければ捨てればいいだけでしょう。それが犯罪になるのなら憲法第二一条が保障する「表現の自由」は絵に描いたモチです。

 これでは、民主主義にとって欠かせない自由な意見表明や討論が十分できません。

 国民から集めた税金で職場にマッサージチェアを設置したり豪華旅行をするなど、「全体の奉仕者」(第一五条第二項)である公務員による私益優先のあれこれが次々明るみに出ました。

 長い間に「主権在民」(前文)が無視されて、主権在官僚のようなシステムを組み上げられてしまったのです。

 憲法は政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私たちの自由と権利を守り幸福を実現する砦(とりで)です。
 国民に砦を守る責任

 憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第九九条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第一二条)、いわば砦を守る責任があります。

 その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたいものです。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/90699.html?_nva=24
北海道新聞 憲法記念日 平和に生きる権利 今こそ(5月3日)

 昨年のいまごろは、安倍晋三政権下で改憲の手続きを定める国民投票法案が大きな議論になっていた。

 いま、福田康夫首相が憲法に言及する場面はほとんど見られない。

 ねじれ国会の下、年金や道路財源問題など早急に取り組まねばならない課題が山積しており、それどころではないというのが本音だろう。

 衆参両院に設けられた憲法審査会は運営規定もまだ決まっていない。二〇一〇年に改憲発議は可能になるが、改憲の動きは表面的にはやや勢いが落ちてきたようにも見える。

 日本国憲法が施行されてきょうで六十一年となる。憲法とは何か、私たちの暮らしにどうかかわるのか。この機に思いをめぐらせてみたい。

*軽視された違憲判断

 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理とする現憲法には人々の「戦争は二度といやだ」という強い願いが込められている。

 なかでも前文と九条は世界に向けた平和と不戦の表明でもある。

 その誓いを戦後、政府はないがしろにしてきたのではないか。そう問いかける司法判断が四月十七日、名古屋高裁で示された。

 イラクに派遣された航空自衛隊の活動は武装兵士を戦闘地域に輸送するものであり、憲法九条が禁じる武力行使にあたると指摘したのだ。

 自衛隊を海外に送り出すために憲法を拡大解釈してきた政府の姿勢を厳しく戒めるものとなった。

 政府は、判決をことさら軽視しようとしている。隊員の心境について航空幕僚長はお笑いタレントのせりふを引用し、「そんなの関係ねぇという状況だ」と言った。

 憲法は国の最高法規だ。九九条は大臣や国会議員、公務員らに憲法の尊重と擁護義務を負わせている。

 にもかかわらず政府が違憲判断を真摯(しんし)に受け止めず、文民統制を崩しかねない制服組の発言を放置する。法治国家としてどうなのだろう。

 政府はイラク派遣を人道支援、国際貢献と言ってきた。しかし、政府がいまなすべきことははっきりしている。イラクから撤退し、憲法にのっとって武力に頼らない国際貢献のあり方を考え直すことではないか。

*生存権が脅かされる

 憲法の前文に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免(まぬ)かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。

 その「平和に生きる権利」がいま脅かされ、侵害されてはいまいか。

 三十一歳のフリーターが月刊誌に発表した「希望は戦争」という論文が昨年、反響を呼んだ。

 戦争は社会の閉塞(へいそく)状態を打破してくれる。生活苦の窮状から脱し、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性をもたらしてくれる。戦争は悲惨でもなくむしろチャンスだ-。

 慄然(りつぜん)とさせられる物言いだが、こうした発言が出てきた社会のあり様(よう)を深刻に考えなければなるまい。

 米国では実際に、貧しい若者たちが生活の保障を求めて軍に志願し、イラクへと送られている。

 憲法二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっている。

 しかし、ワーキングプアと呼ばれる新たな貧困層が増え続けている。年収二百四十万円以下が一千万人を超え、百万円以下も珍しくない。

 後期高齢者医療制度にお年寄りから悲鳴が上がっている。社会保険庁のずさんな管理で、わずかな年金さえ受け取れない人がいる。生活保護世帯は全国で百万を超えた。

 二五条は二項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定めている。それを実践し、憲法を暮らしに定着させるのは国の責務なのだ。

*軍事に頼らぬ平和を

 北海道新聞社が四月に行った世論調査によると、七割の人たちが憲法を改めるべきだと答えている。

 「時代の変化に応じた方がよい」との理由がもっとも多かった。環境権やプライバシー権、知る権利といった、新たな権利の保障などが念頭にあるのだろうか。

 ただ、これらの人権は現憲法でも保障されているとする憲法学者は多い。確かに憲法は「不磨の大典」ではない。国民的論議を広げていくことは必要だろう。

 九条については改憲容認の人たちでも、六割近くが変更しなくていいと答えた。逆に変更して戦力保持を明記するべきだとした人は大幅に減って、三割にとどまった。

 自民党の新憲法草案は、現憲法前文の「平和のうちに生存する国民の権利」を捨て、戦力不保持と、交戦権の否認を定めた九条二項を削除し自衛軍の創設を盛り込んでいる。

 戦後、海外で一度も武力行使をせず、血を流さなかった日本の姿を大きく変えることになる。

 イラクの惨状は、武力で平和はつくれないという当たり前のことを見せつけた。軍事力に頼らず平和を目指そうとの流れが世界で生まれつつある。平和憲法を持つ日本がその先頭に立ってもいいのではないか。

http://www.kanaloco.jp/editorial/entry/entryxiiimay08051/
神奈川新聞 人権擁護し理想の追求を

 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」-。前文で国際社会にこう誓った日本国憲法が、きょう施行六十一年を迎えた。

 焦土から復興に立ち上がった先達の努力によって、現在の日本は自由な民主主義諸国の一角を占めるに至った。先輩たちへの感謝を忘れてはなるまい。ところが、最近、この成果を土台から腐食させるような問題が続いている。

 第一が、ドキュメンタリー映画「靖国」の上映中止、日教組集会の会場使用拒否などで表面化した表現の自由、集会の自由の危機である。一部の映画館、ホテルが右翼団体の街頭宣伝活動などに萎(い)縮(しゅく)した結果、自由が封じられた。嫌がらせや不法行為には警察を含めて行政、社会が毅(き)然(ぜん)とした態度を取るべきだ。ところが「靖国」の例では、騒ぎの発端をつくったのは与党の国会議員だった。

 そこで思い出されるのが、反戦ビラ配布が狙い撃ち同然に検挙された立川反戦ビラ事件だ。政府に批判的な表現を抑圧し、萎縮させるような権力の動きがあった。

 表現の自由は民主主義の土台である。もし萎縮の連鎖や権力の暴走が続くようなら、日本は戦前のような「物言えぬ社会」「専制と隷従、圧迫と偏狭」の社会に戻ってしまうだろう。国民一人一人が、表現の自由を守り抜く決意を持たなければならない。

 第二は、貧困、格差の問題だ。憲法二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、生存権を定めた。高齢者や障害者の福祉が切り捨てられ、汗水流して働いても生活保護水準、貧困ラインを抜け出せない人々がいるのは、大きな人権侵害であると指摘したい。
 世界を見渡せば、医療福祉が整備され、格差の小さな国は、社会経済も安定し、国民の幸福度も高い。日本がこのまま福祉や年金、医療を崩壊させ、働く貧困層を拡大させたらどうなるか。社会はすさみ、経済の底力も失われるだろう。選ぶべき道は明らかだ。

 最後に、平和主義の問題だ。名古屋高裁は先月、航空自衛隊によるバグダッドへの多国籍軍武装兵員輸送を憲法九条違反とした。しかし、政府は判決を無視したままだ。なし崩し的な自衛隊の運用、平和主義からの逸脱をこのまま進めていいのだろうか。あすから三日間、千葉市で「9条世界会議」が開催される。憲法九条の世界史的な意義を再確認したい。

 日本人は今、目先の利益や安心に汲々(きゅうきゅう)としているように見える。果敢に難問に挑み、世界に理想や模範を示すという気概を失ってはいないか。日本国憲法は人類の経験と知恵、理想の集積である。この憲法から勇気を得て「名誉ある地位」への努力を進めたい。

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