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許すな!憲法改悪・市民連絡会

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2008年2月10日 (日)

雑記(27)聖徳太子は実在しなかった

「建国記念日」を明日に控えて、商業メディアの社説としては破格の社説が本日の「東京新聞」に載った。
私は今朝、寝起きに記事に目を通して、「快哉」を叫んだ。ブログに掲載するのでぜひ読んでほしい。

聖徳太子は「憲法」問題とも無関係ではない。自民党などの改憲論者はさも知ったかぶりして、「日本には3つの憲法がある」などといって、帝国憲法とならべて、聖徳太子の17条憲法をあげることがあるし、「和をもって尊しとなす」という言葉もあまりにも有名で、階級対立など、社会的な差異・対立を覆い隠すために、支配層の側が重宝して使うことが多い(私はこれは眉唾のイデオロギーだと思っている)。
そしてこれらの動きが、ナショナリズムや天皇制護持の根強い思想風土と結合して語られ、それを再生産していくのである。

私ごとで言えば、80年代から90年代にかけて、「幕末明治民衆運動史研究会」というアマチュアの歴史研究会を仲間とともに続け、千葉の楠音次郎らの「九十九里反乱」や、相楽総三の赤報隊事件、明治期の自由民権運動と秩父困民党などの歴史を追っていたことがあった。いま広く知られるようになった鈴木安蔵の業績にふれたのもこの頃である。
また、これと並行して歴史家の寺尾五郎さんと日本通史の学習会を続けたこともあった。寺尾さんは「寺尾史観」と私たちが称していた個性派の歴史研究者で、私たちが日本史に複眼的視点を持つ上で、多くを教えられた。この時期に、聖徳太子の存在に疑問をもち、天皇制の通説と日本書紀への批判的視点も私たちなりで固めていた。大山さんの著作に触れるのはその後ではあったが、そのときも大いに学ぶものがあり、「我が意を得たり」の感を強く持ったことがある。
研究会は折りからの憲法問題へのとりくみの力の配分との関係で、私の非力の故に閉じることになったのであるが、これは返す返すも会員諸氏には申し訳なく、また私としても残念なことであった。

話はそれるが、先日、千葉県でおこなわれた「九条の会・千葉地方議員ネットワーク」が主催した憲法問題の講演会の講師で出かけたとき、当時の歴史研究会の仲間だったWさんが会場に聞きに来てくれた。懐かしく、うれしい限りであった。Wさんはいまだに郷土史など歴史の研究を続けており、頭がさがるばかりである。そのとき頂いた本が「やさしさを遺して」(現代書館)という本であった。Wさんは2年前、22歳のご子息を失っていたのである。1人のやさしい若者が亡くなった。こんなやさしい子がなぜ死んだのか、千葉からの帰路はそうした思いを反芻しながら、いただいた本を読むことになった。本はWさん夫妻のやさししさにあふれた本である。

ともあれ、聖徳太子は実在しなかったという歴史の真実が、こうした視点から東京新聞というメディアの社説で語られたことの意義は大きい。(高田)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008021002086566.html
東京新聞【社説】
週のはじめに考える 書き換わる聖徳太子像

2008年2月10日

 実在から非実在へ、聖徳太子像が大きく書き換えられようとしています。戦後歴史学がたどりついた成果とも、真実追究の学問がもつ非情さともいえるでしょうか。

 聖徳太子を知らない日本人はまずいません。教科書風にいえば、六世紀末から七世紀前半の飛鳥時代、日本の伝統精神に仏教や儒教の外来思想を身につけ、日本の国力と文化を飛躍的に高め世界の先進国入りさせていった皇太子です。

 「和を以て貴しと為す」との教えや貧しい者への優しい眼差(まなざ)し、太子の言葉とされる「世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」の無常観などは、いまも人の心にしみて揺さぶります。
 常識になった非実在

 もっとも、一時に八人の訴えを聞いて誤りなく裁いたことから、八耳皇子(やつみみのみこ)と呼ばれたとの伝承や生まれたときから言葉を話し高僧の悟りに達していたとの伝説、その未来予知能力や中国の高僧の生まれ変わりで、最澄は玄孫などの輪廻(りんね)転生の説話などには訝(いぶか)しさを感じさせるものではありました。

 誇張や粉飾があったにしても、実在と非実在では話の次元が全く違ってしまいます。ところが、積み重ねられた近代の実証的歴史学の結論は「聖徳太子はいなかった」で、どうやら決定的らしいのです。

 聖徳太子の実在に最後のとどめを刺したとされるのが、大山誠一中部大学教授の一九九六年からの「長屋王家木簡と金石文」「聖徳太子の誕生」「聖徳太子と日本人」などの一連の著書と論文、それに同教授グループの二〇〇三年の研究書「聖徳太子の真実」でした。
 日本書紀に政治意図

 それらによると、聖徳太子研究で最も重視すべきは、日本書紀が太子作として内容を記す「十七条憲法」と「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」。数多くの伝承や資料のうち太子の偉大さを示す業績といえば、この二つに限られるからだそうです。

 このうち十七条憲法については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、戦前に津田左右吉博士が内容、文体、使用言語から書紀編集者たちの創作などと結論、早大を追われたのは有名です。

 三経義疏は仏教の注釈書で太子自筆とされる法華義疏も現存しますが、これらも敦煌学権威の藤枝晃京大教授によって六世紀の中国製であることが論証されてしまったのです。

 世に知られた法隆寺の釈迦(しゃか)三尊像や薬師如来像、中宮寺の天寿(てんじゅ)国〓帳(こくしゅうちょう)も、その光背の銘文研究や使用されている暦の検証から太子の時代より後世の作であることが明らかになってきました。

 国語・国文学、美術・建築史、宗教史からも実在は次々に否定され、史実として認められるのは、用明天皇の実子または親族に厩戸(うまやど)王が実在し、斑鳩宮に居住して斑鳩寺(法隆寺)を建てたことぐらい。聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢になりました。

 太子像が創作・捏造となると、誰が何のために、その源となった日本書紀とは何かが、古代社会解明の焦点になるのは必然。そのいずれにも重大な役割を果たしたのが持統天皇側近の藤原不比等というのが大山教授の説くところ。長屋王や唐留学帰りの僧・道慈が関与、多くの渡来人が動員されたというのです。

 日本書紀は養老四(七二〇)年完成の最古の正史で、その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の中央集権国家が形成されました。隋・唐の統一と東アジアの大動乱、それによる大化の改新や壬申の乱を経て、古代社会の「倭(わ)の大王」は「日本の天皇」へ変わったとされます。

 大変革の時代の日本書紀の任務は誕生した天皇の歴史的正統性と権威の構築です。それが、高天原-天孫降臨-神武天皇-現天皇と連なる万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる聖天子・聖徳太子の権威の創作、書紀は政治的意図が込められた歴史書でした。

 大山教授の指摘や論考は、歴史学者として踏み込んだものですが、隋書倭国伝との比較などから「用明、崇峻、推古の三人は大王(天皇)でなかったのではないか」「大王位にあったのは蘇我馬子」などの考も示しています。「日本書紀の虚構を指摘するだけでは歴史学に値せず、真実を提示する責任」(「日本書紀の構想」)からで、日本書紀との対決と挑戦が期待されます。
 千年を超えた執念

 日本書紀が展開した思想と論理は千三百年の現実を生き現代に引き継がれました。憲法と皇室典範は「皇位は世襲」で「皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と定めています。

 しかし、万世一系は子孫を皇位にと願う持統天皇のあくなき執念と藤原不比等の構想によって成り、その父系原理も日本古来のものとはいえないようです。建国記念の日に永遠であるかのような日本の原理の由来と未来を探ってみるのも。
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資料・2005年頃、あるメディアに寄稿したものだが採録しておきたい。

 改憲派が持ち上げる聖徳太子の「十七条憲法」は偽書?

 自民党内の改憲派は「日本の歴史、伝統、文化、その象徴としての誇るべき天皇制の尊重」「現行憲法は無国籍憲法だ」「日本には聖徳太子の十七条憲法と、明治天皇がお作りになられた(!)五カ条の御誓文がある」などと、恥知らずなことを言うようになっている。
 これらの人びとが聖徳太子の「十七条の憲法」で特に好んで引用するのは「第一条(一に曰く)以和為貴(和を以て尊しとす)」だ。これを与野党の一部議員たちは「この和の精神こそ日本文化のすぐれた精神を表している」などと言う。
 だからいたずらに「国家と国民の対立を言うのではなく、相互の協調をはかることこそが日本文化なのだ」というのである。
 「和の精神」こそは、皇国史観における思想教育のからくりの種本のようなものだ。聖徳太子は国家の下への国民の統合、国家の下での異質なものの統合、階級対立の否定と融和などを説く際に使われる。実に聖徳太子は国家権力にとっては便利な人物なのだ。
 歴史研究に多少でも興味を持つと、遠からずぶつかる問題は史料の偽書、贋作などの問題だ。
 たとえば東北人の筆者などは、一時期胸躍らせるようにして興味を持ったものに「東日流三郡誌(つがるさんぐんし)」論争というのがあった。
 まだ日本列島に統一政権が成立していなかった奈良や平安の時代、東北地方は大和の政権による「征夷」という名の軍事侵略が繰り返された。
 歴史の本には坂上田村麻呂の「奥州征伐」などと書かれ、抵抗する者はまつろわぬ民であり、あるいは鬼とされた。
 東北地方に住む者として、大和から見て書かれた歴史に反発し、侵略への抵抗闘争に関心を持ち、また当時の奥州の独自の高い文化の存在に興味を持った。佐 治芳彦氏の「謎の東日三流郡誌」などは懸命に読んだ。中世に繁栄した津軽の十三湊(とさみなと)と荒吐(あらはばき)一族の興隆と滅亡など古代東北史の壮 大な物語は、アトランティス大陸の滅亡の悲話のようで、東北人の筆者を惹きつけた。
 しかし、「東日流三郡誌」はのちに地元青森などの古文書研究会らによって、発見者が書いた偽書との鑑定結果が公表された。
 大和の権力と戦った安東氏の伝説や、あたらしくはNHKの大河ドラマの奥州藤原氏と源義経に関する伝説など、事実も少なくないが、相当に脚色された面も多い。
 しかし、東北人はこうした説には騙されやすい側面がある。
 例の石器のねつ造問題もそうだ。
 差別と偏見にさらされてきた東北人としては、旧石器時代が大昔の東北・北海道にあったというだけで、スカッとするのだ。
 しかし、聖徳太子の手によるとされる「十七条憲法」が偽書だったとしたらどうだろうか。
 あるいは聖徳太子のもうひとつの書物「三経議疏(さんきょうぎしょ)」が実は彼の手になるものではないとしたらどうなるだろうか。
 改憲派が高く持ち上げる聖徳太子の和の精神、日本のすばらしい歴史・伝統・文化という議論は崩れ去るのだ。
 いまでは偽書の「東日流三郡誌」などの助けを借りなくとも、アテルイをはじめ大和の侵略に抗して戦った東北の民衆の歴史は存在することが証明できる。
 大山誠一という人の「聖徳太子と日本人」が角川文庫から出た。大山さんの史観には異論もあろうが、おもしろい。
 彼にいわせれば「厩戸王という一人の王族がいて、斑鳩の宮(奈良県)に住み、斑鳩寺(法隆寺)を建立したことは事実だが、……憲法十七条を制定し、『三 経議疏』を著したというのは事実ではなく、偉大な聖徳太子に関する史料は、すべてのちの時代につくられたものである」というのだ。
 一読をすすめる。

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